Santa Lab's Blog


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その12)

これまでもなほ細河相摸のかみ清氏きようぢは元の陣を不引退、人馬に息を継がせて、我に同ずる御方あらば、今一度快く挑み戦うて雌雄をここに決せんとて、西坂本に引き、その夜はつひに落ち給はず。夜明けければ、宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどのより使者を立て、「重ねて合戦の評定あるべし。先づ東坂本へ被打越候へ」と被仰ければ、この上は清氏一人留まつても無甲斐とて、翌日早旦に東坂本へ被参ける。この時故武蔵の守師直もろなほが思い者の腹に出で来たりとて、武蔵将監しやうげんと云ふ者、片田舎に隠れて居たりけるを、阿保あふ肥前の守忠実ただざね荻野をぎの尾張をはりの守朝忠ともただら、にはかに取り立てて大将になし、丹波・丹後・但馬三箇国の勢、三千余騎を集めて、宰相の中将殿に力を合はせん為に、西山の吉峯に陣を取つてぞ居たりける。




これまでなおも細川相摸守清氏(細川清氏)は元の陣を引き退くことなく、人馬に息を継がせて、我に加わる味方があれば、今一度思うままに挑み戦って雌雄をここに決せんと、西坂本(現京都市左京区)に引き、その夜は遂に落ちませんでした。夜が明けると、宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏ノ嫡男)より使者があって、「重ねて合戦の評定がしたい。まず東坂本(現滋賀県大津市)に打ち越えられよ」と仰せがあったので、この上は清氏一人留ったところで仕方あるまいと、翌日早旦に東坂本へ参りました。この時故武蔵守師直(高師直)の思い者(二条兼基かねもとの娘)の子に、武蔵将監(高師詮もろあきら)という者が、片田舎に隠れていましたが、阿保肥前守忠実(阿保忠実)・荻野尾張守朝忠(荻野朝忠)らが、急ぎ取り立てて大将になし、丹波・丹後・但馬三箇国の勢、三千余騎を集めて、宰相中将殿(足利義詮)に力を合わせるために、西山の吉峯(現京都市西京区の善峯寺)に陣を取りました。



[PR]
# by santalab | 2017-06-24 08:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その11)

氏範うぢのり大きに牙を嚼みて、「無詮力態ちからわざゆゑに、組んで討つべかりつる長山を、打ち漏らしつる事のねたさよ。よしよし敵はいづれも同じ事、一人も亡ぼすに不如」とて、奪ひ取つたるまさかりにて、逃ぐる敵を追つめ追つ攻め切りけるに、兜の鉢を真つかうまでり付けられずと云ふ者なし。流るる血にはをのの柄も朽つる許りに成りにけり。美濃勢には、土岐七郎しちらうを始めとして、桔梗一揆の衆九十七騎まで討たれぬ。近江勢には、伊庭いば八郎はちらう蒲生がまふ将監しやうげん川曲かわぐま三郎・蜂屋将監しやうげん・多賀の中務なかづかさ・平井孫八郎・儀俄げが五郎知秀ともひで以下、三十八騎討たれぬ。この外粟飯原あいはら下野しもつけかみ匹田ひきだ能登の守も討ち死にしつ。後藤筑後の守かみ貞重さだしげも生けられぬ。打ち残されたる者とても、あるひは疵をかふむりあるひは矢種射尽くして、重ねて可戦とも思えざりければ、大将義詮朝臣よしあきらあそんも日暮れて東坂本へ落ち給ふ。




氏範(赤松氏範)はしきりに牙を噛んで([歯噛み]=[怒りや悔しさから歯をかみしめて音を立てること])、「つまらぬ力比べをして、組んで討つべき長山(長山頼基よりもと)を、打ち漏らしたことの無念さよ。まあよい敵は誰も同じよ、一人残らず亡ぼしてやろう」と申して、奪い取った鉞で、逃げる敵を追い詰め追い詰め切ったので、兜の鉢を真っ向まで割られぬ者はいませんでした。流れる血は斧の柄も朽ちるほどでした。美濃勢は、土岐七郎(土岐頼遠よりとほのことだが、すでに斬首されている)をはじめとして、桔梗一揆([土岐氏一族の強力な武士団])の衆九十七騎が討たれました。近江勢は、伊庭八郎・蒲生将監・川曲三郎・蜂屋将監・多賀中務・平井孫八郎・儀俄五郎知秀(儀俄知秀)以下、三十八騎が討たれました。このほかに粟飯原下野守(粟飯原清胤きよたね。ただし、下総守)・匹田能登守も討ち死にしました。後藤筑後守貞重(後藤貞重)は生け捕りにされました。打ち残された者も、あるい疵を被りあるいは矢種を射尽くして、重ねて戦うことができるとも思えませんでしたので、大将義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)も日が暮れてから東坂本(現滋賀県大津市)に落ちて行きました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-23 07:10 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その10)

赤松遥かにこれを見て、これは聞こゆる長山遠江とほたふみかみごさんめれ。それならば組んで討たばやと思ひければ、諸鐙合はせて迹に追つ著き、「洗ひかはの鎧は長山殿と見るは僻目ひがめか、きたなくも敵に後ろを見せらるるものかな」と、ことばを懸けて恥ぢしめければ、長山きつと振り返つてからからと打ち笑ひ、「問ふはそとよ」。「赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢよりよ」。「さてはよい敵。但しただ一打ちに失はんずるこそかはゆけれ。念仏申して西に向かへ」とて、件のまさかりを以つて開き、兜の鉢をれよ砕けよと思ふ様に打ちける処を、氏範太刀をひらめて打ち背け、鉞の柄を左の小脇に挟みて、片手にてえいやとぞ引きたりける。引かれて二疋の馬あひ近に成りければ、互ひに太刀にては不切、鉞を奪はん奪はれじと引き合ひけるほどに、蛭巻ひるまきしたるかしの木の柄を、中よりづんと引つ切つて、手本は長山が手に残り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留まりける。長山今までは我に勝る大力非じと思ひけるに、赤松に勢力を砕かれて、叶はじとや思ひけん、馬を早めて落ち延びぬ。




赤松(赤松氏範うぢのり)遥かにこれを見て、あれは噂に聞く長山遠江守(長山頼基よりもと)ではないか。そうならば組んで討ってやると思い、諸鐙を合わせて後に追い付き、「洗い革([水に浸してよく練った白いなめし皮。また、薄紅色に染めたなめし皮])の鎧は長山殿と見るが僻目([見誤り])か、卑怯にも敵に後ろを見せるとは」と、言葉を掛けて侮辱すると、長山(頼基)はきっと振り返ってからからと打ち笑い、「我を呼ぶのは誰だ」。「赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)よ」。「ならば敵だな。ただ一打ちに失うのはかわいそうなことだ。念仏を唱え西を向け」と申して、件の鉞を取って構え、兜の鉢を割れよ砕けよと力一杯打ち下ろすところを、氏範は太刀を平らにして打ち外すと、鉞の柄を左の小脇に挟んで、片手でえいやと引きました。引かれて二匹の馬が近くなったので、互いに太刀では斬ることができず、鉞を奪おう奪われまいと引き合ううちに、蛭巻([補強や装飾のために、刀の柄や鞘、また槍・薙刀・斧などの柄を、鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いたもの])した樫の木の柄が、中より引き切れて、手元は長山(頼基)の手に残り、鉞の方は赤松(氏範)の左脇に挟んだままでした。長山は今まで我に勝る大力はいないと思っていましたが、赤松に勢力を砕かれて、敵わないと思ったか、馬を早めて落ちて行きました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-22 07:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その9)

赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢのりは、いつも打ち込みの軍を好まぬ者なければ、手勢計り五六十騎ごろくじつき引き分けて、返す敵あれば、追つ立て追つ立て切つて落とす。名もなき敵どもをば、何百人切つてもよしなし。あはれよからんずる敵に逢はばやと願ひて、北白川きたしらかはを今路へ向かつて歩ませ行く処に、洗ひかはの鎧の妻取つたるに竜頭たつがしらの兜のめ、五尺許りなる太刀二振り帯いて、歯のわたり八寸計りなる大鉞おほまさかりを振りかたげて、近付く敵あらばただ一打ちに打ちひしがんと尻目に敵を睨んでしづかに落ち行く武者あり。




赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)は、打ち込み([秩序がなく入り乱れること])の軍を好まなかったので、手勢ばかり五六十騎を引き分けて、返す敵があれば追い立て追い立て切つて落としました。名もない敵どもを、何百人斬っても仕方ない。ああよい敵に遭わないかと願いながら、北白川(現京都市左京区)を今路([今路越]=[近江に至る古路])へ向かって馬を歩ませ行くところに、洗い革([水に浸してよく練った白いなめし皮。また、薄紅色に染めたなめし皮])の鎧を褄取り([褄取威]=[袖や草摺の端を斜めに、地色とは別の色で威したもの])したものに竜頭([竜の形をした兜の前立])の兜の緒を締めて、五尺ばかりの太刀を二振り佩き、歯の亘り([周囲])渡り八寸ばかりの大鉞を肩に懸け、近付く敵があればただ一打ちに打ち下ろそうと尻目に敵を睨んで閑かに落ち行く武者がいました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-21 07:01 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その8)

細河ほそかは相摸のかみ清氏きようぢ、これほど御方の打ち負けたるを見ながら、すこしも機を不屈、なほ勇み進んでぞ見へたりける。吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮民部の少輔せう海東かいとう和田にぎた・楠木、皆荒手なれば細河と懸かり合つて、鴨川を西へ追ひ渡し、真如堂の前を東へ追つ立て、時移るまでぞ戦ひたる。千騎せんぎが一騎に成るまでも引かじとこそ戦ひけれども、将軍の陣あらけ靡いて後ろの御方相遠あひどほに成りければ、細河つひに打ち負けて四明しめいの峯へ引き上がる。




細川相摸守清氏(細川清氏)は、これほどに味方が打ち負けたのを見ながら、少しも気落ちせず、なおも勇み進むように見えました。吉良(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔義房よしふさ)・原・蜂屋・宇都宮民部少輔・海東・和田(和田正武まさたけ)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)は、皆新手でしたので細川(清氏)と懸かり合って、鴨川を西へ追い渡し、真如堂(現京都市左京区にある真正極楽寺)の前を東へ追い立て、時が移るまで戦いました。千騎が一騎になろうとも引くまいと戦いましたが、将軍(足利尊氏)の陣が散り散りになって後ろの味方が離れてしまったので、細川(清氏)は遂に打ち負けて四明峯(四明嶽=比叡山)に引き上りました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-20 07:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その7)

宮方手合はせの軍に打ち勝つて、気を揚げ勇みに乗つて東の方を見たれば、土岐の桔梗ききやう一揆、水色の旗を差し上げ、大鍬形おほくはがた夕陽せきやう耀かかやかし、魚鱗に連なりて六七百騎がほど控へたり。小林これを見て人馬に息をも継がせず、やがて懸け合はせんとしけるを、山名右衛門うゑもんすけ扇を揚げて招き止め、荒手の兵千余騎を引き勝つて相近付あひちかづく。土岐も山名も閑々しづしづと馬を歩ませて、一矢射違ふるほどこそあれ、互ひに諸鐙を合はせて懸け入り、敵御方二千余騎、一度にさつと入り乱れて、弓手に逢ひ馬手めてに背き、半時許り切り合ひたるに、馬烟むまけぶり虚空にまはつてつじかぜ微塵みぢんを吹き立てたるに不異。太刀の鍔音つばおと・鬨の音、大山たいざんくづし大地を動かして、すはや宮方打ち勝ちぬと見へしかば、鞍の上空しき放れ馬四五百疋、河より西へわしり出でて、山名が兵のきつさきに首を貫かぬはなかりけり。




宮方は手合わせの軍に打ち勝って、気を上げ勇みに乗って東の方を見れば、土岐の桔梗一揆([土岐氏一族の強力な武士団])が、水色の旗を差し上げ、大鍬形([兜の前立の一])を夕陽に輝かせて、魚鱗([兵法で、八陣の一。中央が突き出した陣形])に連なり六七百騎ほど控えていました。小林(左京亮)はこれを見て人馬に息をも継がせず、たちまち駆け合わせようとしましたが、山名右衛門佐(山名師氏もろうぢ)が扇を上げて招き止め、新手の兵千余騎を引き選って進ませました。土岐(土岐頼康よりやす)も山名(師氏)もゆっくりと馬を歩ませて、互いに諸鐙を合わせて駆け入り、敵御方二千余騎が、一度にさっと入り乱れると、弓手([左])に当たり馬手([右])に別れ、半時ばかり切り合いました、馬煙が虚空に舞い上がりまるで旋風が微塵を吹き立てたようでした。太刀の鍔音・鬨の声は、大山を崩し大地を動かして、すでに宮方が打ち勝ったと見えると、鞍の上空しき放れ馬が四五百匹、川(鴨川)より西へ走り出て、山名(師氏)の兵の切っ先に首を貫かぬ者はいませんでした。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-19 07:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その6)

ここに佐々木惣領そうりやう氏頼うぢより、その頃遁世にて西山辺に隠れ居たりける間、舎弟五郎右衛門うゑもんじよう世務せむに代はつて国の権柄を執りしが、近江あふみの国の地頭・御家人、この手にしよくして五百余騎ありけるが、楠木が勢に招かれて、胡録えびらたたき鬨の声を揚げをめいて懸かる。楠木が勢やうに開き陰にかためて散々に射る。射れども佐々木が勢ひるまず、しころを傾けて袖をかざし、懸け入りけるを見て、山名が執事小林左京さきやうすけ、七百余騎にて横合ひに逢ふ。佐々木勢余りに手痛く懸けられて、叶はじとや思ひけん、神楽岡かぐらをかへ引き上がる。




佐々木惣領氏頼(六角氏頼)は、その頃遁世して西山辺に隠れ住んでいました、舎弟五郎右衛門尉(山内信詮)が千手(六角氏頼の嫡男)に代わって国の権柄を執っていました、近江国の地頭・御家人は、この手に属して五百余騎ありましたが、楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)の勢に手招きされて、箙([矢を入れて右腰につける武具])を叩き鬨の声を上げて喚いて懸かりました。楠木(正儀)の勢は陽に開き陰に固めて散々に矢を射ました。矢を射れども佐々木の勢はひるまず、錣([兜・頭巾の左右・後方に下げて首筋をおおう部分])を傾けて袖で覆い、駆け入るのを見て、山名(山名師氏もろうぢ)の執事小林左京亮が、七百余騎で横合いに当たりました。佐々木勢はあまりに手痛く駆けられて、敵わないと思ったか、神楽岡(現京都市左京区)に引き上がりました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-18 08:53 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その5)

去るほどに文和二年六月九日卯の刻に、南方の官軍くわんぐん、吉良・石堂いしたう和田にぎた・楠木・原・蜂屋・赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢのり三千余騎、八条はつでう九条くでうの在家に火を懸けて、相図のけぶりを上げたれば、山陰道せんおんだうの寄せ手、山名伊豆いづかみ時氏ときうぢ子息右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢ・伊田・波多野はだの、五千余騎、梅津・桂・嵯峨・仁和寺・西七条に火を懸けて、先づ京中きやうぢゆうへぞ寄せたりける。洛中には向かふ敵なければ、南方西国のつはものども、一所に打ち寄つて、四条川原しでうがはらくつばみならべて控へたり。これより遥かに敵の陣を見遣れば、鹿谷ししのたに神楽岡かぐらをかの南北に、家々の旗二三百流れひるがへつて、つ目結ひの旗一流れ真つさきに進んで、真如堂の前に下り合ふたり。敵陣皆山に寄つて木陰に控へたり。勢の多少も不見分和田・楠木、法勝寺の西の門を打ち通つて、川原かはらに控へたりけるが、敵をおびき出して勢のほどを見んとて、射手の兵五百人馬より下ろし、持楯もつたて畳楯でふたて突きしとみ突き蔀み、しづかに田のくろを歩ませて、次第次第に相近付あひちかづく。




やがて文和二年(1353)六月九日卯の刻([午前六時頃])に、南方(南朝)の官軍、吉良(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔義房よしふさ)・和田(和田正武まさたけ)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)三千余騎が、八条九条の在家に火を懸けて、相図の狼煙を上げると、山陰道の寄せ手、山名伊豆守時氏(山名時氏)子息右衛門佐師氏(山名師氏)・伊田・波多野、五千余騎は、梅津(現京都市右京区)・桂(現京都市西京区)・嵯峨(現京都市右京区)・仁和寺(現京都市右京区)・西七条(現京都市下京区)に火を懸けて、まず京中に寄せました。洛中には向かう敵はいませんでしたので、南方西国の兵どもは、一所に打ち寄って、四条河原(現京都市下京区・中京区)に轡を並べて控えました。これより遥かに敵陣を見遣れば、鹿ヶ谷(現京都市左京区)・神楽岡(現京都市左京区)の南北に、家々の旗が二三百流れ翻って、四目結(佐々木氏の紋)の旗が一流れ真っ先に進んで、真如堂(現京都市左京区にある真正極楽寺)の前に控えていました。敵陣は皆山沿いの木陰に控えていました。勢の多少も知れないままに和田(正武)・楠木(正儀)は、法勝寺(かつて現京都市左京区にあった寺院)の西門を通って、河原に控えていましたが、敵をおびき出して勢のほどを見ようと、射手の兵五百人を馬から下ろし、持楯畳楯([大型の楯])を突き並べて、ゆっくり田の畦を歩ませて、徐々に敵陣に近付きました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-17 08:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その4)

この時将軍未だ上洛しやうらくし給はで、鎌倉にをはせしかば、京都余りに無勢ぶせいにて、大敵可戦様もなかりけり。中々なる軍して敵に気を著けては叶ふまじとて、土岐・佐々木の者ども、しきりに江州がうしうへ引き退いて、勢多にて敵を相待あひまたんと申しけるを、宰相さいしやう中将ちゆうじやう義詮朝臣よしあきらあそん、「敵大勢なればとて、一軍もせでいかが聞き逃げをばすべき」とて、主上しゆしやうをば先づ山門の東坂本へ行幸なしまゐらせて、仁木・細河ほそかは・土岐・佐々木三千余騎を一処に集め、鹿谷ししのたにを後ろに当てて、敵を洛川らくせんの西に相待たる。この陣の様、前に川あつて後ろに大山そばだちたれば、引き場の思ひはなけれども、韓信が兵書をさみして背水はいすゐの陣を張りしに違へり。殊更土岐・佐々木の兵、近江と美濃とを後ろに於いて戦はんに、引きて暫く気を休めばやと思はぬ事やあるべきと、未だ戦はざるさきに敵に心をぞはかられける。




この時将軍(足利尊氏)はまだ上洛せず、鎌倉にいたので、京都はあまりにも無勢にして、大敵と戦うべくもありませんでした。つまら軍をして敵に勢いを付けては元も子もないと、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)の者どもが、しきりに江州(近江国)へ引き退いて、勢多(現滋賀県大津市)で敵を待とうと申しましたが、宰相中将義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)は、「敵が大勢だからといって、一軍もせずにどうして聞き逃げできようか」と申して、主上(北朝第四代、後光厳天皇)をまず山門の東坂本(現滋賀県大津市)へ行幸参らせて、仁木(仁木義長よしなが)・細川(細川清氏きようぢ)・土岐(頼康)・佐々木(道誉)三千余騎を一所に集め、鹿ヶ谷(現京都市左京区)を後ろに当てて、敵を洛川(鴨川)の西にして待ち構えました。この陣の様は、前に川があって後ろに大山がそばだち、引き退くことは考えていませんでしたが、韓信(中国秦末から前漢初期にかけての武将)が兵書を元に背水の陣を張ったのとはまったく異なっていました。中でも土岐(頼康)・佐々木(道誉)の兵は、近江と美濃とを後ろにして戦うことになりましたが、引き退いてしばらく休む気も起こるかと、戦う前に敵に心を読まれていました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-16 07:21 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その3)

伯耆はうきの国に著かれければ、師氏もろうぢ先づ親父しんぶ左京大夫時氏ときうぢの許に行きて、「京都の沙汰の次第、面目を失ひつる間、将軍にいとまをも申さず罷り下り候ふ」と語りければ、親父も大きに忿いかつて、やがて宮方の御旗を揚げ、先づ道誉だうよが小目代にて、吉田肥前が出雲いづもの国にありけるを追ひ出だし、事の子細を相触あひふるるに、富田とんだ判官はうぐわんを始めとして、伊田・波多野はだの・矢部・小幡をばたに至るまで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国しかこく即時に打ちしたがへてげり。さらばやがて南方へ牒送てふそうせよとて、吉野殿へ奏聞をるに、山陰道せんおんだうより攻め上らば、南方よりも官軍くわんぐんを出だされて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大きに悦びて、五月七日伯耆の国を立つて、但馬・丹後の勢を引き具して、三千余騎丹波路たんばぢを経て攻め上る。兼ねて相図を差しければ、南方より惣大将そうだいしやう四条しでうの大納言隆俊たかとし・法性寺左兵衛さひやうゑかみ康長やすなが和田にぎた・楠木・原・蜂屋・赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢのり・湯浅・貴志きじ・藤波を始めとして、和泉・河内・大和・紀伊の国のつはものども三千余騎勝り出だしければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡おほわたり、西は梅津・桂の里・谷の・峯の堂・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焚き続けたる篝火の影、幾千万と云ふ数を不知。




伯耆国に着くと、師氏(山名師氏)は真っ先に親父左京大夫時氏(山名時氏)の許に行き、「京都の沙汰に、面目を失ったので、将軍(足利尊氏)に暇も申さず下って参りました」と語ると、親父もたいそう怒って、やがて宮方の旗を上げ、まず道誉(佐々木道誉)の小目代として、吉田肥前(吉田秀長ひでなが)が出雲国にいたので追い出し、事の子細を触れ回ると、富田判官(富田秀貞ひでさだ)をはじめとして、伊田・波多野・矢部・小幡にいたるまで皆同意したので、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国を即時に打ち従えました。ならばすぐに南方(南朝)へ牒送せよと、吉野殿(第九十七代後村上天皇)に奏聞すると、山陰道より攻め上るならば、南方よりも官軍を出して、同時に京都を攻めるべしと仰せがありました時氏はたいそうよろこんで、(文和二年(1353))五月七日に伯耆国を立って、但馬・丹後の勢を引き具して、三千余騎を丹波路を経て京に攻め上りました。かねて相図を決めていたので、南方(南朝)より総大将四条大納言隆俊(四条隆俊)・法性寺左兵衛督康長(藤原康長)・和田(和田正武まさたけ)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)・湯浅・貴志・藤波をはじめとして、和泉・河内・大和・紀伊国の兵ども三千余騎を選び出しました、南は淀(現京都市伏見区)・鳥羽(現京都市南区・伏見区)・赤井・大渡、西は梅津(現京都市右京区)・桂の里(現京都市西京区)・谷堂(現京都市西京区の西光寺) ・峯堂(法華山寺。現京都市西京区にあった)・嵐山(現京都市西京区)までも陣に取らぬ所はなく、焚き続く篝火の影は、幾千万という数を知りませんでした。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-06-15 07:02 | 太平記 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧