Santa Lab's Blog


「太平記」直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事(その5)

去るほどに師子外の山より帰り来て后をたづね求むるに、后もおはしまさず、我が子もなし。こはいかなる事ぞと驚きあわてて、化けたるかたち元のすがたに成つて、山を崩し木を堀り倒し求むれども不得。さては人の棲む里にぞおはすらんとて、師子国へ走り出でて、奮迅の力を出だして吠え忿いかるに、いかなるくろがねじやうなりとも破れぬべくぞ聞こへける。野人村老おそたふれ、死する者幾千万と云ふ数を知らず。また不近付所も、家を捨て財宝を捨て逃げ去りける間、師子国十万里の中には、人一人もなかりけり。されども、この師子王位にや恐れけん、都の中へは未だ入らず、ただ王宮近き辺に来て、夜な夜な地をうごかして吠えいかり、天に飛揚ひやうして鳴き叫びける間、大臣・公卿・刹利せつり居士こじ、皆宮中に逃げ篭もる。




やがて獅子は他所の山より帰って后を探したが、后もなく、我が子もいなかった。これはどうしたことかと驚きあわてて、化けた形を元の姿に変えて、山を崩し木を堀り倒し探したが見付からなかった。さては人が住む里にいるのではと思い、師子国へ走り出て、奮迅([勢い激しく奮い起つこと])の力を出して吠え怒れば、いかなる鉄の城であろうとも壊れるようほどだった。野人村老は怖れ倒れ、死ぬ者は幾千万という数を知を知れなかった。また近付かぬ所も、家を捨て財宝を捨て逃げ去ったので、師子国十万里の中には、人一人もいなかった。けれども、獅子も王位に恐れをなしたか、都の中へは入らず、ただ王宮に近いあたりに来て、夜な夜な地を響かして吠え怒り、天に届くほどに鳴き叫んだので、大臣・公卿・刹利([刹帝利]=[インドのバルナ=四種姓。で、バラモンに次ぐ第二位の身分。王族および武士])・居士([出家をせずに 家庭において修行を行う仏教の信者])は、皆宮中に逃げ籠もった。



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# by santalab | 2017-07-04 15:37 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事(その4)

かくて三年みとせを過ごさせ給ひけるほどに、后ただならず成り給ひて男子を生み給へり。あはれみのふところの中にひととなつて歳十五に成りければ、貌形みめかたちの世に勝れたるのみに非ず、筋力人に超えて、いかなる大山を挟んで北海を飛び越ゆるとも、可容易とぞ見へたりける。ある時この子母の后に向かつて申しけるは、『たまたま人界にんがいの生を受けながら、后は畜類の妻と成らせ給ひ、我は子と成りて候ふ事、過去の宿業しゆくごふとは申しながら、心憂き事にて候はずや。可然しかるべき隙を求めて、后この山を逃げ出でさせ給へ。我負ひ奉て師子国の王宮わうぐうへ逃げ篭もり、母を后妃の位に昇せ奉り、我も朝烈てうれつの臣と仕へて、畜類のくわを離れ候はん』と勧め申しければ、母の后無限喜びて、師子の他の山へ行きたりける隙に、后この子に負はれて、師子国の王宮へぞ参り給ひける。帝なのめならず喜び思し召して、君恩たぐひなかりければ、後宮綺羅の三千、為君薫衣裳、君聞蘭麝為不馨香。為君事容色、君看金翠為無顔色。新しき人来たりて旧き人棄てられぬ。眼の裏の荊棘けいぎよくたなごころうへの花の如し。




こうして三年を過ごすほどに、后は子を宿して男子を生んだ。憐れみの懐の中に人となって十五歳になると、見目かたちは世に優れるばかりでなく、筋力は人に超えて、いかなる大山を挟んで北海を飛び越えることさえ、容易いことに思われた。ある時この子が母の后に向かって申すには、『たまたま人界の生を受けながら、后は畜類の妻となられて、わたしは子となりました、過去の宿業とは申しながら、嘆かわしいことではありませんか。しかるべき隙を見付けて、この山からお逃げなさいませ。わたしが背負って師子国の王宮へ逃げ籠もり、母を后妃の位に昇らせて、わたしも朝烈の臣として仕え、畜類の果を離れましょう』と勧め申したので、母の后は限りなくよろこんで、獅子が他の山へ行った隙に、后は子に負われて、師子国の王宮に参った。帝はたいそうよろこんで、君恩は類なく、後宮綺羅の三千人が、君のために衣裳を着飾れど、蘭麝([蘭の花と麝香じやこうの香り。また、よい香り])に魅せられて他の者に馨香([かぐわしいよい香り。また、遠くまで及ぶ徳のたとえ])に及ぶことはなかった。容色([美貌])をなしても、君は金翠ばかりを見て他に目を向けることはなかったのだ。新しい人が来て今までの人は棄てられた。荊棘([イバラなど、とげのある低い木])の身が花に変わったようであった。


続く


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# by santalab | 2017-07-01 09:12 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事(その3)

その中に王たる師子、かの后を口にくはへて、深山幽谷のいはほの中に置奉て、この師子容顔ようがん美麗なる男の形に変じければ、后この妻と成り給ひて、思はぬ山の岩の陰に、年月をぞ送らせ給ひける。始めのほどは后、かかる荒きけだものの中に交はりぬれば、我さへ畜類ちくるゐの身と成りぬる事の心憂さ、何に命の永らへて、一日片時いちにちへんしも過ぐべしと思えず、消えぬを露の身の憂さに思し召ししづませ給ひけるが、苔深き巌は変じて玉楼金殿となり、虎狼野干こらうやかんけて卿相けいしやう雲客うんかくとなり、師子はして万乗の君と成つて、玉位ぎよくいの座によそほひをうづだかくして、袞竜こんりようの御衣に薫香くんかうを散ぜしかば、后早や憂かりし御思ひも消え果てて、連理の枝の上に、心の花のうつろはん色を悲しみ、階老かいらうの枕の下に、夜の隔つるほどをだにかこたれぬべく思し召す。




その中にいた王の獅子は、かの后を口に咥えて、深山幽谷の巌の中に連れ帰ったのだ。獅子は容顔美麗な男の姿に変わり、后は妻となって、思いもしなかった山の岩陰で、年月を送った。はじめの頃は、このような獰猛な獣の中に交わって、我も畜類の身となることを悲しみ、どうして命を永らえて、一日片時も過ごせようと思いながら、消えぬ露の身の悲しみに沈んでおったが、苔深き巌は変じて玉楼金殿となり、虎狼野干([中国で、悪獣の名。狐に似た外見で、木登りがうまく、オオカミに似た鳴き方をするという])は化けて卿相([公卿])雲客([殿上人])となり、獅子は化けて万乗の君となり、玉位の座に装飾を重ね、袞竜([ 天子の礼服につける竜の縫い取り。また、その縫い取りのある衣服])の衣は薫香を漂わせていたので、后は悲しみも消え果てて、連理の枝([男女の契りの深いことのたとえ])の上には、心の花の色あせることを悲しみ、偕老([生きてはともに老いること])の枕の下には、一夜の隔てさえも嘆かわしく思うようになった。


続く


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# by santalab | 2017-06-30 06:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事(その2)

伝奏洞院とうゐん右大将うだいしやう頻りに被執申ければ、再往さいわうの御沙汰迄もなく直冬ただふゆが任申請、すなはち綸旨をぞ被成ける。これを聞きて遊和軒朴翁いうくわけんはくをう難じまうしけるは、「天下の治乱興滅ちらんこうめつ皆大の理に不依と云ふ事なし。されば直冬朝臣を以つて大将として京都を被攻事、一旦雖似有謀事成就じやうじゆすべからず。その故は昔天竺に師子国ししこくと云ふ国あり。この国の帝他国より后を迎へ給ひけるに、軽軒香車けいけんかうしや数百乗すひやくじよう侍衛じゑ官兵十万人、前後四五十里しごじふりに支へ道をぞ送りまゐらせける。日暮れてある深山しんざんとほりける処に、勇猛奮迅ふんじんの師子ども二三百疋走り出で、追つめ追つ譴め人を食ひける間、軽軒ぢくれて馳すれども不遁、官軍くわんぐん矢射尽くして防げども不叶、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人、一人も不残喰い殺されにけり。




伝奏の洞院右大将(洞院実守さねもり)がしきりに執申([仲介する、 取次ぐ])したので、再往の沙汰もなく直冬(足利直冬。足利尊氏の子で足利直義ただよしの猶子)の申請通り、たちまち綸旨を下されました。これを聞いて遊和軒朴翁は非難して申すには、「天下の治乱興滅は皆大理に依らずということなし。なれば直冬朝臣を大将として京都を攻めたところで、一旦の謀となるとも成就することはあいであろう。その故は昔天竺に師子国という国があった。この国の帝が他国から后を迎えるために、軽軒([軽快な上等の車])香車([立派な車])数百乗、侍衛官兵十万人、前後四五十里に連なって道中を送った。日が暮れてある深山を通っておると、勇猛奮迅([勢い激しくふるいたつこと])の獅子どもが二三百匹現れて、追い詰め追い詰め人を喰った、軽軒の軸は折れて急ごうとも逃れることはできず、官軍が矢を射尽くして防ぐとも叶わず、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人が、一人も残らず喰い殺されたのじゃ。


続く


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# by santalab | 2017-06-29 07:24 | 太平記 | Comments(0)


太平記

巻第一

後醍醐天皇御治世の事付武家繁昌の事
関所停止の事
立后事付三位殿御局事
儲王の御事
中宮御産御祈之事付俊基偽篭居の事
資朝俊基関東下向の事付御告文の事
無礼講の事付玄恵文談の事
頼員の事

巻第二
南都北嶺行幸の事
僧徒六波羅召捕事付為明詠歌の事
三人の僧徒関東下向の事
俊基朝臣再関東下向の事
長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事
俊基被誅事並助光事
天下怪異の事
師賢登山の事付唐崎浜合戦の事
持明院殿御幸六波羅の事
主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事

巻第三
主上御夢の事付楠事
笠置軍事付陶山小見山夜討事
主上御没落笠置事
赤坂城軍の事
桜山自害事

巻第四
笠置囚人死罪流刑の事付藤房卿の事
八歳宮御歌の事
一宮並妙法院二品親王の御事
俊明極参内の事
中宮御歎の事
先帝遷幸の事
備後三郎高徳事付呉越軍の事

巻第五
持明院殿御即位の事
宣房卿二君奉公の事
中堂新常灯消事
相摸入道弄田楽並闘犬の事
時政参篭榎嶋事
大塔宮熊野落の事

巻第六
民部卿三位局御夢想の事
楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事
正成天王寺未来記披見の事
赤松入道円心賜大塔宮令旨事
関東大勢上洛事
赤坂合戦の事付人見本間抜懸の事

巻第七
吉野城軍事
千剣破h城軍の事
新田義貞賜綸旨事
赤松蜂起事
河野謀反事
先帝船上臨幸事
船上合戦事

巻第八
摩耶合戦の事付酒部瀬河合戦の事
三月十二日合戦の事
持明院殿行幸六波羅事
禁裡仙洞御修法の事付山崎合戦の事
山徒寄京都事
四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事
主上自令修金輪法給ふ事付千種殿京合戦の事
谷堂炎上事

巻第九
足利殿御上洛事
山崎攻の事付久我畷合戦の事
足利殿打越大江山事
足利殿着御篠村則国人馳参事
高氏被篭願書於篠村八幡宮事
六波羅攻の事
主上・上皇御沈落事
越後守仲時以下自害の事
主上・上皇為五宮被囚給事付資名出家の事
千葉屋城寄手敗北の事

巻第十
千寿王殿被落大蔵谷事
新田義貞謀反の事付天狗催越後勢事
三浦大多和合戦意見の事
鎌倉合戦の事
赤橋相摸守自害の事付本間自害の事
稲村崎成干潟事
鎌倉兵火の事付長崎父子武勇の事
大仏貞直並金沢貞将討死の事
信忍自害の事
塩田父子自害の事
塩飽入道自害の事
安東入道自害の事付漢王陵事
亀寿殿令落信濃事付左近の大夫偽落奥州事
長崎高重最期合戦の事
高時並一門以下於東勝寺自害の事

巻第十一
五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事
諸将被進早馬於船上事
書写山行幸の事付新田注進の事
正成参兵庫事付還幸の事
筑紫合戦の事
長門探題降参の事
越前牛原地頭自害の事
越中守護自害の事付怨霊の事
金剛山寄手ら被誅事付佐介貞俊事

巻第十二
公家一統政道の事
大内裏造営の事付聖廟の御事
安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事
千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事
広有射怪鳥事
神泉苑の事
兵部卿親王流刑の事付驪姫事

巻第十三
北山殿謀反の事
中前代蜂起の事
兵部卿宮薨御の事付干将莫耶事
足利殿東国下向の事付時行滅亡の事

巻第十四
新田足利確執奏状の事

将軍御進発大渡・山崎等合戦の事
主上都落の事付勅使河原自害の事
長年帰洛の事付内裏炎上の事
将軍入洛の事付親光討死の事
坂本御皇居並御願書の事

巻第十五
園城寺戒壇事
奥州勢着坂本事
三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事
建武二年正月十六日合戦事
正月二十七日合戦事
将軍都落事付薬師丸帰京事
大樹摂津国豊嶋河原合戦事
主上自山門還幸の事
賀茂神主改補事

巻第十六
将軍筑紫御開の事
小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事

備中福山合戦事
新田殿被引兵庫事
正成下向兵庫事
兵庫海陸寄手事
本間孫四郎遠矢事
経嶋合戦事
正成兄弟討死事
新田殿湊河合戦事
小山田太郎高家刈青麦事
聖主又臨幸山門事
持明院本院潜幸東寺事
日本朝敵の事
正成首送故郷事

巻第十七
義貞北国落事
還幸供奉人々被禁殺事
北国下向勢凍死事

巻第十九
光厳院殿重祚の御事
本朝将軍補任兄弟無其例事
新田義貞落越前府城事
金崎東宮並将軍宮御隠の事
諸国宮方蜂起の事
相摸次郎時行勅免の事
奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛の事
追奥勢跡道々合戦の事
青野原軍事付嚢沙背水事

巻第二十
黒丸城初度軍の事付足羽度々軍の事
越後勢越越前事
宸筆の勅書被下於義貞事

八幡炎上の事
義貞重黒丸合戦の事付平泉寺調伏法の事
義貞夢想の事付諸葛孔明事
義貞の馬属強の事
義貞自害の事
義助重集敗軍事
義貞の首懸獄門事付勾当内侍の事
奥州下向勢逢難風事
結城入道堕地獄事

巻第二十一
天下時勢粧の事
佐渡判官入道流刑の事
法勝寺の塔炎上の事
先帝崩御の事
南帝受禅の事
任遺勅被成綸旨事義助攻落黒丸城事

巻第二十二
作々木信胤成宮方事
義助予州下向の事
義助朝臣病死の事付鞆軍の事
大館左馬助討死の事付篠塚勇力の事

巻第二十三
大森彦七事
就直義病悩上皇御願書の事
土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事

巻第二十四
三宅・荻野謀反の付壬生地蔵の事

巻第二十五
持明院殿御即位事付仙洞事

自伊勢進宝剣事黄粱夢事
住吉合戦の事

巻第二十六
正行参吉野事

巻第二十七
右兵衛佐直冬鎮西没落事
左馬頭義詮上洛事
直義朝臣隠遁の事付玄慧法印末期の事
上杉畠山流罪死刑の事
大嘗会の事

巻第二十八
義詮朝臣御政務事
太宰少弐奉聟直冬事
三角入道謀反事
直冬朝臣蜂起の事付将軍御進発の事

巻第二十九
宮方京攻事
将軍上洛事付阿保秋山河原軍事
将軍親子御退失事付井原石窟事
越後守自石見引返事
光明寺合戦の事付師直怪異の事
小清水合戦の事付瑞夢の事
松岡の城周章の事
師直師泰出家事付薬師寺遁世事
師冬自害事付諏方五郎事
師直以下被誅事付仁義血気勇者の事

巻第三十
将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事
高倉殿京都退去の事付殷紂王の事
直義追罰の宣旨御使の事付鴨社鳴動の事
薩多山合戦の事
慧源禅門逝去の事
吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事
相公江州落事
持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事

巻第三十一
新田起義兵事
武蔵野合戦の事
鎌倉合戦の事
笛吹峠軍の事
八幡合戦事付官軍夜討の事
南帝八幡御退失の事

巻第三十二
茨宮御位事

山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事
主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事
山名伊豆守時氏京落事
直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事

巻第三十三
京軍事
八幡御託宣の事

将軍御逝去事
新待賢門院並梶井宮御隠事
崇徳院御事
菊池合戦事
新田左兵衛佐義興自害事

巻第三十四
宰相中将殿賜将軍宣旨事

龍泉寺軍の事

巻第三十五
新将軍帰洛の事付擬討仁木義長事

北野通夜物語の事付青砥左衛門事

巻第三十六
仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事
大地震並夏雪事
天王寺造営事付京都御祈祷事
山名伊豆守落美作城事付菊池軍事
秀詮兄弟討死事
清氏反逆事付相摸守子息元服事
頓宮心替事付畠山道誓事

巻第三十七
清氏正儀寄京事
新将軍京落事
南方官軍落都事
持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事
可立大将事付漢楚立義帝事
尾張左衛門佐遁世事
身子声聞一角仙人志賀寺上人事
畠山入道道誓謀反事付楊国忠事

巻第三十八
彗星客星事付湖水乾事
諸国宮方蜂起事付越中軍事
九州探題下向事付李将軍陣中禁女事
菊池大友軍の事
畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事
細川相摸守討死事付西長尾軍事
和田楠与箕浦次郎左衛門軍の事
大元軍事

巻第三十九
大内介降参事
山名京兆被参御方事
仁木京兆降参事
芳賀兵衛入道軍事

光厳院禅定法皇行脚事
法皇御葬礼事

巻第四十
中殿御会事
左馬頭基氏逝去事
南禅寺与三井寺確執事
最勝講之時闘諍に及ぶ事
将軍薨逝の事
細川右馬頭自西国上洛の事
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# by santalab | 2017-06-28 08:10 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事(その1)

翌年の春、新田左兵衛さひやうゑすけ義興よしおき・脇屋左衛門義治よしはる、共に相摸の河村のじやうを落ちて、いづくにあるとも不聞しかば、東国心安く成つて、将軍尊氏たかうぢきやう上洛しやうらくし給へば京都また大勢に成りにけり。さらばやがて山名を可被攻とて、宰相さいしやう中将ちゆうじやう義詮朝臣よしあきらあそんを先づ播磨の国へ下さる。山名伊豆いづかみこれを聞きて、この度は可然大将を一人取り立てて合戦をせずは、我に勢の著く事はあるまじと被思ける間、足利右兵衛うひやうゑすけ直冬ただふゆの筑紫九国の者どもに被背出、安芸・周防の間に漂泊し給ひけるを招きしやうじ奉り、惣大将そうだいしやうとぞ仰ぎける。但しこれも将軍に敵すれば、子として父をむる咎あり。天子に対すれば臣として君をないがしろにし奉る恐れあり。さらば吉野殿へ奏聞を経て勅免をかうむり、宣旨に任せて都を傾け、将軍を攻め奉らんは、天の忿いかり人のそしりもあるまじとて、直冬ひそかに使ひを吉野殿へまゐらせて、「尊氏の卿・義詮朝臣以下の逆徒を可退治由の綸旨を下し給ひて、宸襟を休め奉るべし」とぞ申されける。




翌年の春、新田左兵衛佐義興(新田義興。新田義貞の次男)・脇屋左衛門義治(脇屋義治。新田義貞の弟、脇屋義助よしすけの子)は、ともに相摸の河村城(現神奈川県足柄上郡山北町)を落ちて、どこにいるとも知れなかったので、東国は安泰になって、将軍尊氏卿(足利尊氏)が上洛したので京都はまた大勢となりました。ならばづぐに山名(山名時氏ときうぢ)を攻めるべしと、宰相中将義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)をまず播磨国に下しました。山名伊豆守はこれを聞いて、この度はしかるべき大将を一人取り立てて合戦しなければ、我に勢が付くことはあるまいと思い、足利右兵衛佐直冬(足利直冬。足利尊氏の子で足利直義ただよしの猶子)が筑紫九国の者どもに背かれて、安芸・周防の間に漂泊しているのを招き請じて、総大将と仰ぎました。ただし直冬は将軍(足利尊氏)に敵対すれば、子として父を攻める咎あり。天子に対すれば臣として君をないがしろにする恐れあり。ならば吉野殿(第九十七代後村上天皇)に奏聞を経て勅免を蒙り、宣旨に任せて都を傾け、将軍を攻めれば、天の怒り人の誹りもあるまいと、直冬は密かに使いを吉野殿に参らせて、「尊氏卿・義詮朝臣以下の逆徒を退治すべき由の綸旨を下されて、宸襟を休められますよう」と申し上げました。


続く


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# by santalab | 2017-06-28 08:07 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名伊豆守時氏京落事

さるほどに山名右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢは、都の敵を容易く攻め落として心中の憤り一時に解散げさんしぬる心地して、喜悦きえつの眉を開く事ことはりなり。勢付かばやがて濃州ぢようしう発向はつかうして、宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどのを攻め奉らんと議せられけれども、降参する敵もなし催促に応ずる兵稀なり。あまつさへ洛中には吉野殿より四条しでう少将せうしやうを成敗のていにて置かれたりける間、毎事まいじ山名が計らひにもあらず、また知行の所領も近辺になかりければ、出雲・伯耆より上り集まりたりし勢どもも、在京に疲れて漸々ぜんぜんに落ち行きけるほどに、日を経て無勢ぶせいになりにけり。かくてはいかがせん、かへつて敵に寄せられなば我も都を落とされぬと、内々仰天ぎやうてんせられけるところに、義詮よしあきら朝臣、東山とうせん・東海・北陸道ほくろくだうの勢を率して宇治・勢多より攻め上らるとも聞こへ、また赤松律師則祐そくいうが中国より勢を率して上洛しやうらくすとも聞こへければ、四方しはうの敵の近付かぬ先に早く引き退けとて、数日すじつの大功徒らに、天下に時を得ずしかば、四条しでう少将せうしやう官軍くわんぐんを率して南方に帰り、山名は父子諸共に道を追ひ払つて、伯耆の国へぞ下りける。




やがて山名右衛門佐師氏(山名師氏)は、都の敵を容易く攻め落として心中の憤りは一時に解散した心地がして、喜悦の眉を開くのはもっともなことでした。勢が付けばたちまち濃州(美濃国)に発向して、宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)を攻めようと決めていましたが、降参する敵もなく催促に応じる兵もほとんどいませんでした。その上洛中には吉野殿(第九十七代後村上天皇)は四条少将(四条隆俊たかとし?四条隆資たかすけの子)を成敗のために置かれたので、毎事山名(師氏)の計らい通りにもいかず、また知行の所領も近辺になかったので、出雲・伯耆より上り集まった勢どもも、在京に疲れて次第に落ちて行ったので、日を経るうちに無勢になりました。こうなっては如何ともし難く、反対に敵に寄せられたら我も都を落とされるであろうと、内々仰天しているところに、義詮朝臣が、東山・東海・北陸道の勢を率して宇治(現京都府宇治市)・勢多(現滋賀県大津市)より攻め上るとも聞こえ、また赤松律師則祐(赤松則祐のりすけ)が中国より勢を率して上洛するとも聞こえたので、四方の敵が近付かぬ先に早く引き退けと、数日の大功は無益となり、天下に時を得ることなく、四条少将は官軍を率して南方に帰り、山名(師氏)は父子諸共に道中の敵を追い払って、伯耆国に下りました。


続く


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# by santalab | 2017-06-27 08:53 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その14)

武蔵将監しやうげんは、二町にちやう許り落ち延びたりけるを、阿保あふと荻野と遥かにかへりみて、「今は叶はぬ所にて候ふ。御自害候へ」と勧めける間、馬上にて腹掻き切り、さかさまに落ちて死にけり。この首を取らんとて、敵一所に打ち寄つてひしめきけるを、沼田小太郎ただ一騎かへし合はせて戦ひけるが、敵は大勢なり。御方は続かず、叶ふまじとや思ひけん、同じく腹掻き切つて、武蔵将監が死骸を枕にしてぞ臥したりける。その間に阿保と荻野は落ち延びて、無甲斐命を助かりけり。




武蔵将監(高師詮もろあきら。高師直もろなほの子)は、二町ばかり落ち延びていましたが、阿保(阿保忠実ただざね)と荻野(荻野朝忠ともただ)が遥かに振り向いて、「今は叶わぬところでございます。自害なされませ」と勧めたので、馬上で腹を掻き切り、逆様に落ちて死にました。この首を取ろうとして、敵が一所に打ち寄ってひしめくところを、沼田小太郎がただ一騎返し合わせて戦いましたが、敵は大勢でした。味方は続かず、今はこれまでと思ったか、同じく腹を掻き切って、武蔵将監の死骸を枕にして臥しました。その間に阿保(忠実)と荻野(朝忠)は落ち延びて、甲斐なき命を助かりました。


続く


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# by santalab | 2017-06-26 08:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その13)

京都の大敵にだにたやすく打ち勝つて勇み勇みたる山名がつはものどもなれば、なじかは少しも可猶予、十一日じふいちにちあけぼのに吉峯へ押し寄せ、矢一つも射させず、抜き連れて切つて上る。阿保あふ荻野をぎのが兵ども余りに強く被攻て、一支へも支へず谷底へ懸け落とされければ、久下くげ五郎を始めとして討たるる者四十しじふ余人、疵をかうむる者数を不知。希有にして逃げ延びたる者どもも、弓矢・太刀・長刀を取り捨てて、赤裸にて落ちて行く。見苦しかりし有様なり。




京都の大敵にさえ容易く打ち勝って勇みきった山名(山名師氏もろうぢ)の兵どもでしたので、少しも日を置かず、(文和二年(1353)六月)十一日の曙に吉峯(現京都市西京区の善峯寺)に押し寄せると、矢一つも射させず、抜き連れ([大勢の者が、そろって刀を抜く])て切って上りました。阿保(阿保忠実ただざね)・荻野(荻野朝忠ともただ)の兵どもはあまりに強く攻められて、一支えも支えず谷底へ駆け落とされて、久下五郎をはじめとして討たれる者は四十余人、疵を被る者は数知れませんでした。希有にして逃げ延びた者どもも、弓矢・太刀・長刀を取り捨てて、赤裸(丸腰)になって落ちて行きました。見苦しい姿でした。


続く


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# by santalab | 2017-06-25 08:49 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その12)

これまでもなほ細河相摸のかみ清氏きようぢは元の陣を不引退、人馬に息を継がせて、我に同ずる御方あらば、今一度快く挑み戦うて雌雄をここに決せんとて、西坂本に引き、その夜はつひに落ち給はず。夜明けければ、宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどのより使者を立て、「重ねて合戦の評定あるべし。先づ東坂本へ被打越候へ」と被仰ければ、この上は清氏一人留まつても無甲斐とて、翌日早旦に東坂本へ被参ける。この時故武蔵の守師直もろなほが思い者の腹に出で来たりとて、武蔵将監しやうげんと云ふ者、片田舎に隠れて居たりけるを、阿保あふ肥前の守忠実ただざね荻野をぎの尾張をはりの守朝忠ともただら、にはかに取り立てて大将になし、丹波・丹後・但馬三箇国の勢、三千余騎を集めて、宰相の中将殿に力を合はせん為に、西山の吉峯に陣を取つてぞ居たりける。




これまでなおも細川相摸守清氏(細川清氏)は元の陣を引き退くことなく、人馬に息を継がせて、我に加わる味方があれば、今一度思うままに挑み戦って雌雄をここに決せんと、西坂本(現京都市左京区)に引き、その夜は遂に落ちませんでした。夜が明けると、宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏ノ嫡男)より使者があって、「重ねて合戦の評定がしたい。まず東坂本(現滋賀県大津市)に打ち越えられよ」と仰せがあったので、この上は清氏一人留ったところで仕方あるまいと、翌日早旦に東坂本へ参りました。この時故武蔵守師直(高師直)の思い者(二条兼基かねもとの娘)の子に、武蔵将監(高師詮もろあきら)という者が、片田舎に隠れていましたが、阿保肥前守忠実(阿保忠実)・荻野尾張守朝忠(荻野朝忠)らが、急ぎ取り立てて大将になし、丹波・丹後・但馬三箇国の勢、三千余騎を集めて、宰相中将殿(足利義詮)に力を合わせるために、西山の吉峯(現京都市西京区の善峯寺)に陣を取りました。


続く


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# by santalab | 2017-06-24 08:17 | 太平記 | Comments(0)

    

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