和泉と申す法師の御介錯しけるが、この御有様只事にはあらじと思ひて、目を放さず、ある夜御跡を慕ひて隠れて叢の蔭に忍び居て見ければ、斯様に振舞ひ給ふ間、急ぎ鞍馬に帰りて、東光坊にこの由申しければ、阿闍梨大きに驚き、良智坊の阿闍梨に告げ、寺に触れて、「牛若殿の御髪剃り奉れ」とぞ申されける。良智坊この事を聞き給ひて、「幼き人も様にこそよれ。容顔世に越えておはすれば、今年の受戒いたはしくこそおはすれ。明年の春の頃剃り参らさせ給へ」と申しければ、「誰も御名残りはさこそ思ひ候へども、斯様に御心不用になりて御渡り候へば、我が為、御身の為しかるべからず候ふ。ただ剃り奉れ」とのたまひければ、牛若殿何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものをと、刀の柄に手を掛けておはしましければ、左右なく寄りて剃るべしとも見えず。覚日坊の律師申されけるは、「これは諸人の寄合所にて静かならぬ間、学問も御心に入らず候へば、それがしが所は傍らにて候へば、御心静にも御学問候へかし」と申されければ、東光坊もさすがにいたはしく思はれけん、さらばとて覚日坊へ入れ奉り給ひけり、御名をば変へられて遮那王殿とぞ申しける。それより後には貴船の詣でも止まりぬ。日々に多聞に入堂して、謀反の事をぞ祈られける。
和泉と言う法師が義経(源義経)の介錯([付き添って世話をすること])をしていましたが、この様子は只事ではないと思って、目を離さず、ある夜後を付けて隠れて草むらの陰から見ると、早業の訓練をしていたので、急ぎ鞍馬に帰って、東光坊(蓮忍)にこれを話すと、東光坊阿闍梨はたいそう驚いて、良智坊阿闍梨に告げて、寺に知らせて、「牛若殿の髪を剃るように」と申しました。良智坊はこれを聞いて、「幼い者でも見た目があります。牛若殿は顔かたち人に優れております、今年受戒([仏の定めた戒律を受けること])を受けさせるのはかわいそうです。来年の春頃に髪を剃らせてはどうですか」と申すと、東光坊は「誰にでも名残りはそれこそあるだろうが、今のように身勝手なことをされては、我が身、御身にとってよくなかろう。すぐに髪を剃りなさい」と申しました、牛若殿はたとえ誰だろうが、近寄って髪を剃ろうとする者を、突き刺そうと刀の柄に手を掛けていたので、難なく近づいて髪を剃ることはできませんでした。覚日坊律師が申すには、「ここは皆の寄合所([集会所])であるから静かでなければ、学問も身に入らないはずです、わたしの僧坊ははずれにありますから、牛若殿も心静かに学問なさるのではないですか」と申したので、東光坊もさすがにかわいそうに思ったのか、ならばと牛若殿を覚日坊へ移して、名を変えて遮那王殿と呼ぶようになりました。それより後は遮那王は貴船に詣でることはなくなりました。毎日多聞(多聞堂。鞍馬寺の山門近くにある堂)に入り、謀反の事を祈りました。
(続く)