遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱、唐の祿山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふる所を知らざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
遠く異朝(中国)をたずねれば、秦(B.C.778~B.C.206)の趙高(趙高が擁立した子嬰帝によって殺された)、漢(ここでは、前漢(B.C.20~8)と後漢(25~220)の間、新(8~23)のこと)の王莽(前漢最後の皇太子孺子嬰から帝位を簒奪だつし、新を建国したが、後漢の初代皇帝劉秀=光武帝によって滅ぼされた)、梁(後梁(907~923)のこと)の朱(子、兄弟で帝位を争って殺しあったあげく、最後は、後唐の初代皇帝荘宗、李存勗によって滅ぼされた)、唐の祿山(安史の乱(755~763)のこと。唐の節度使、つまり、地方組織であった安禄山たちが唐に対して起こした反乱、最後は子に殺される)、これらの者たちは皆、前代の君主、先帝のまつりごとにも従わず、快楽を極め、諫言に深く思い寄せることなく、天下が乱れることの意味を知らずして、民衆が嘆き悲しむことを理解できなかったので、時を経ることもなく、滅びてしまった者たちなのです。
(続く)