その子どもは皆諸衛の佐になる。昇殿せしに、殿上の交はりを人嫌ふに及ばず。ある時忠盛、備前の国より上られたりけるに、鳥羽の院「明石の浦はいかに」と仰せければ忠盛畏まつて、
有明の 月も明石の うら風に 浪ばかりこそ よるとみえしか
と
申されたりければ、
院大きに
御感あつて、やがてこの歌をば、
金葉集にぞ入れられける。忠盛、また
仙洞に最愛の
女房を持つて夜な夜な通はれけるが、ある夜おはしたりけるに、かの女房の
局に、
端に月出だしたる
扇を取り忘れて、出でられたりければ、
傍への女房たち、「これはいづくよりの月影ぞや、出で所おぼつかなし」など、笑ひあはれければ、かの女房、
雲井より 忠盛きたる 月なれば おぼろげにては 言はじとぞ思ふ
と詠みたりければ、いとど浅からずぞ思はれける。薩摩の
守忠教の母これなり。似るを友とかやの風情にて、忠盛の好いたりければ、かの女房も
優なりけり。
平忠盛の子どもたちは皆諸衛佐([諸衛]=[左右近衛府、左右兵衛府、左右衛門府の総称]、[佐]=[次官])になりました。昇殿することになって([佐]は[従五位上相当])、殿上人との交遊を嫌うこともありませんでした。ある時忠盛が備前国(今の岡山県の東南部に香川県、兵庫県の一部を含んだ)から京に上ったので、鳥羽院が「明石の浦はどうだった」と言われたので忠盛は畏まって、
有明の月も明石の浦風(浜風)によって波のように押し寄せてくるので、まるで月夜のように美しかったですよ(「明石の浦」と「浦風」、「波が寄る」と「夜と見えし」を掛けています)。
と詠んだので、鳥羽院はとても感心されて、後にこの歌を、金葉集(『金葉和歌集』は白河院(1053~1129)が勅命した勅撰和歌集、ちなみに白川院は鳥羽院の祖父にあたります、時代が前後しているような気もしますが、[金葉集]が完成したのは、1126年のことらしく、鳥羽院の時代と重なります)に入れられました。忠盛は、また仙洞(上皇の御所)に最愛の女房を持って毎夜通われていましたが、ある夜おいでになったときに、その女房の部屋に、端の方に月が出た扇を忘れて、出ていかれたので、近くの女房たちが、「これはどこに出た月影(月光)でしょうか、出所がよくわかりません(忠盛はいったいどこへ出かけたのでしょうか)」などと、笑い囃したので、その女房は、
雲のいる所から忠盛殿は来られるのです。そんな忠盛殿の月ですから、出所ははっきりしません。ですから言わないでおきましょうよ。
と詠んだので、とても愛情深い仲だと思われたのでした。薩摩守(今の鹿児島県西部)の忠教(平忠教)の母がこの女房なのです。「似るを友」([似た者通しが仲良くなること])のことわざの通りなのでしょうか、忠盛が好き好んだ、その女房も優れた女性でした。
(続く)