ややあつて上人のたまひけるは、「まことに受け難き人身を受けながら、空しく三途に帰りましまさんこと、悲しんでもなほ余りあり。しかるに今穢土を厭ひ、浄土を願はんと思し召さば、悪心を捨てて善心を起こしましまさんにおいては、三世の諸仏も定めて随喜し給ふらん。それ出離の道まちまちなりとは申せども、末法濁乱の機には、称名をもつて勝れたりとす。心ざしを九品に分かち、行を六字に縮めて、いかなる愚痴暗鈍の者も唱ふるに頼りあり。罪深ければとて、卑下し給ふべからず。十悪五逆廻心すれば往生を遂ぐ。功徳少なければとて、望みを断つべからず。一念十念の心を至せば来迎す。専名号至西方と釈して、専ら名号を称ずれば、西方に至り、念々称名常懺悔とのたまひて、念々に弥陀を唱ふれば、懺悔するなりとぞ教へける。利剣即是弥陀号を頼めば、魔縁近づかず。一声称念罪皆除と念ずれば、罪皆除けりと見えたり。浄土宗の至極は、各々利益を存じて、大略これを肝心とす。
しばらくして上人(法然上人)が申すには、「まことに受けがたい人の身を生に受けながら、空しく三途([地獄・畜生・餓鬼の三悪道])に帰られるのは、あまりにも悲しいことでございます。けれども今より穢土([娑婆])を逃れ、浄土([極楽浄土]=[阿弥陀仏の住む極楽浄土])に参りたいと願えば、三世([三千大千世界]=[仏教の世界観による広大無辺の世界])の諸仏もきっと随喜することでしょう。さて出離([迷いを離れて解脱の境地に達すること])の道は多くございますが、末法([仏法最後の退廃期])濁乱([悪がはびこって人を惑わせ、世が乱れること])の時代には、称名([仏の名])を唱えるのが一番でございます。心を九品([極楽往生の際の九つの階位])に馳せ、行を六字(南無阿弥陀仏)に求めれば、どのような愚痴([心性が愚かで、一切の道理に暗いこと])暗鈍([道理に暗く鈍いこと])の者でも助かると申します。罪深いと、卑下することはありません。十悪([身・口・意の三業がつくる十種の罪悪])五逆([五種の最も重い罪])の者でも廻心([心を改め、正しい仏の道に入ること])すれば往生([極楽浄土に往って生まれ変わること])すると申します。功徳([現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行])が少ないからといって、あきらめてはなりません。一念([一度の念仏])十念も一心に唱えれば来迎([極楽浄土へ導くため阿弥陀仏や諸菩薩が紫雲に乗って迎えに来ること])がございます。専名号至西方と申しまして、ひたすら名号([御名])を唱えれば、西方浄土に至り、念々称名常懺悔と言いますが、念々([瞬時も休むことがないこと])弥陀を唱えれば、懺悔(許しを得ること)できると仏は教えております。利剣即是弥陀号([阿弥陀仏の名号は、これを唱える時、すべての罪障煩悩を、利剣のように断ち切るという意])を信じれば、魔縁([心を迷わせる悪魔])は近づけないと申します。一声称念罪皆除([南無阿弥陀仏」と一声念仏を唱える、その功徳によって、すべての罪業が除かれるということ])と念ずれば、罪は皆除かれると書かれております。浄土宗(法然開祖の宗派)の至極([正しい道])は、各々利益([仏菩薩などが衆生など他に対して恵みを与えること])があることを信じて、総じて念仏を肝心([最も重要なこと])とするものでございます。
(続く)