酔いどれの今にも目の前すべての景色が霧か霞かはたまた幻か、いずれにせよ何ともはや、まこと頼り甲斐のないものと思いながらも、それでもわずかながら確かにくっきりと映る「何か」が、ほとんど「偶然」と言える確率で現れては、しかし所詮「錯覚」としか思えないのだけれども、せめても「存在した」ばかりのことをただ拠り所にして。
「それで満足?」なんて決して思うことはないのだけれども、それでもほんの一歩高望みしたところで一体何になるというわけでもなし、とにもかくにも一瞬の「その時」を逃さないようにと。
そんな「どうでもいい」ようで「決してそうではない」、結局のところ「どうしようもない」のもまた定めとして諦めるほかなく、外に何を願っても仕方ないというものでしょうが。
そんな与太話も話している内が「華」なのでしょう。面と向かって話せないどころか己の口さえも利けなくなった時、一体何を思い残そうとするのですかね。ただただこの「痛み」から逃れた「安らぎ」ばかりなのかも知れませんけれども。それはそれで「悲しい」ことではあります。