霞の底には法華読誦の声聞こゆ。霊鷲山とも申しつべし。そもそも権現当山に跡を垂れさせましましてよりこの方、我が朝の貴賎上げ、歩みを運び、首かうべを傾かたぶけ、掌たなごころを合はせて、利生りしやうに与あづからずと言ふことなし。僧侶されば甍いらかを並べ、道俗だうぞく袖を連ねたり。寛和くわんわの夏の頃、花山くわざんの法皇ほふわう、十善じふぜんの帝位ていゐをすべらせ給ひて、九品くほんの浄刹じやうせつを行はせ給ひけん御庵室あんじつの旧跡きうせきには、昔を偲ぶと思しくて、老木おいきの桜ぞ咲きにける。いくらも並み居ゐたりける那智籠りの僧どもの中に、この三位中将殿を、都にてよく見知り参まゐらせたると思しくて、同行どうぎやうの僧に語りけるは、「これなる修行者しゆぎやうじやを誰たれやらんと思ひ居たれば、あなことも愚かや、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にてましますなり。あの殿のいまだ四位しゐの少将せうしやうなりし安元あんげんの春の頃、院ゐんの御所法住ほふぢう寺殿にて、五十じふの御賀おんがのありしに、父小松殿は、内大臣の左大将だいしやうにておはします。
霞の底からは法華経を読む声が聞こえました。霊鷲山(釈迦が法華経などを説いた山)とも言える場所でした。権現が那智山に姿を現してより、我が国の貴賎上下に関わりなく、足を運び、頭を下げ、手を合わせて、利生([仏・菩薩が衆生に利益を与えること])にあずかろうとしたことは言うまでもありませんでした。僧侶は庵を並べ、道俗([僧侶と俗人])が袖を連ねました。寛和(985~987)の夏の頃、花山法皇が、帝位を下りて(円融天皇の子で、花山院の従兄弟にあたる一条天皇に譲位しました)、九品の浄刹([九品浄土]=[極楽浄土])を祈られた庵室の跡には、昔を偲ぶ、老木の桜の花が咲いていました。多くの那智籠り(那智の滝に打たれながら祈願する僧)の僧たちの中に、三位中将殿(平維これ盛もり)のことを、都でよく見知ると思われる者がいて、同行([心を同じくしてともに仏道を修める僧])の僧に話すには、「ここにいる修行者を誰かと思っていたが、なんとしたことでございましょう、小松大臣殿(平重盛しげもり)の嫡子である、三位中将殿ではありませんか。あの殿(維盛)がまだ四位の少将であった安元(1175~1177)の春の頃、後白河院の御所法住寺殿(今の京都市東山区にある寺院)で、五十の賀があった時にお見かけしました、父の小松殿(重盛)は、内大臣の左大将でございました。
(続く)