ただ大方の春だにも、暮れ行く空は物憂きに、いはんやこれは今日を最期、ただ今限りのことなれば、さこそは心細かりけめ。沖の釣り舟の波に消え入るやうに思ゆるが、さすが沈みも果てぬを見給ふにつけても、御身の上とや思はれけん。己が一連引き連れて、今はと帰る雁が音の、越路を指して鳴き行くも、故郷へ言伝てせまほしく、蘇武が胡国の恨みまで、思ひ残せる隈もなし。「こはされば何事ぞや。なほ妄執の尽きぬにこそ」と思ひ返し、西に向かひ手を合はせ、念仏し給ふ心の内にも、「さても都には、今を限りとはいかでか知るべきなれば、風の便りの訪れをも、今や今やとこそ待たんずらめ」と思はれければ、合掌を乱り、念仏を止め、聖に向かつてのたまひけるは、「哀れ人の身に、妻子と言ふものをば、持つまじかりけるものかな。今生にて物を思はするのみならず、後世菩提の妨げとなりぬることこそ口惜しけれ。
春とはいっても、暮れ行く空はすっきりせず、ましてや今日を最期、今を限りのことならば、維盛はどれほど心細かったことでしょう。沖の釣り舟が波に消え入るように思えて、沈むことがないのを見るにつけても、身の上のように思われるのでした。雁が仲間たちを引き連れて、北へ帰るために、越路を目指して鳴き渡るのを聞いても、都に言伝てしてもらいたくなり、蘇武が故国([中国北方の異民族の国])を恨んで、故郷の思いを募らせる隙間もありませんでした(『蘇武』)。「これはいったいどうしたことか。妄執([成仏を妨げる虚妄の執念])が尽きないとは」とつくづく思って、西に向かって手を合わせ、念仏を唱える心の中にみ、「それにしても都では、わたしの命も今を限りと知るはずもないから、わたしからの便りが届くのを、今か今かと待っていることだろう」と思われて、合掌は乱れ、念仏を止めて、聖(滝口入道)に向かって言うには、「ああ人の身で、妻子というものを、持つものではないのだろう。今生([現世])で悩むばかりか、後世([後の世])の菩提([煩悩を断ち切って悟りの境地に達すること])の妨げになるとは残念なことだ。
(続く)