建久八年十二月十五日に従五位上に叙し、同じき日右少将になり給ふ。御年十六歳なり。同じき九年正月三十日讃岐の権の佐に任じ給ふ。同じき十一月二十八日正五位下に叙す。同じき十年改元あつて正治と号す。正月二十日左中将に転ず。御年十八歳なり。同じき二十六日に諸国の事を奉行すべき由宣下し給ふ。正治二年正月五日従四位上に叙し、同じき八日禁色を許さる。同じき十月二十六日従三位に叙し、左衛門の督に任じ給ふ。御年十九歳なり。同じき七月二十二日従二位に叙し、同じく征夷大将軍たり。
源頼家は建久八年(1197)十二月十五日に従五位上に叙し、同じ日に右少将になりました。十六歳の時でした。同じ建久九年(1198)正月三十日には讃岐権佐に任命されました。同じ十一月二十八日に正五位下になりました。同じ建久十年(1199)に改元あって正治となりました。正月二十日に左中将に上がりました。十八歳でした。同じ正月二十六日に諸国を奉行([主君などの命令を奉じて物事を執り行うこと])する旨の宣下がありました。正治二年(1200)正月いつかに従四位上となり、同じ八日には禁色宣下([禁色の着用を許可する宣旨を下すこと])が下りました。同じ十月二十六日には従三位となり、左衛門督に任命されました。十九歳の時でした。同じく(ではなく建仁二年(1202))七月二十日には従二位となり、同じ日征夷大将軍となりました。
(続く)