同じき正月二十七日、将軍家、左大将拝賀の為に鶴が岡の八幡宮へ御社参あり。酉の刻に御出でありけるに、先づ牛飼ひ四人、次に舎人四人、次に一員。将曹狩野の景盛・府生狛の盛光・将監中原の成能、以上束帯なり。次に殿上人には、一条の侍従能氏・藤兵衛の佐頼経・伊予の少将実雅・右馬の権守頼範の朝臣・中宮権の亮信能の朝臣随身四人なり。一条の大夫頼氏・一条の少将能房・前の因幡の守師憲の朝臣・伊賀の少将隆経の朝臣・文章博士仲章の朝臣なり。
同じ建保七年(1219)の正月二十七日に、将軍家(征夷大将軍。源実朝)は、左大将拝賀([任官・叙位などの時、朝廷・神仏などに礼を申し述べること])のため鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市にある神社)へ社参([神社に参詣すること])しました。酉の刻([午後六時頃])に出かけましたが、先頭には牛飼い([牛飼い童]=[牛を使って牛車を進ませる者])が四人、次に舎人([皇族や貴族に仕え、護衛・雑用に従事した下級官人])が四人、次に一員([役人])が続きました。将曹([近衛府の主典=佐])狩野景盛・府生([六衛府・検非違使庁などの下級職員])狛盛光・将監([近衛府の判官])中原成能、以上の者は束帯([朝服])でした。次に殿上人には、一条侍従能氏(一条能氏)・藤兵衛佐頼経(藤原頼経)・伊予少将実雅(一条実雅)・中宮権亮信能朝臣(一条信能)が随身([供])として四人続きました。次には一条大夫頼氏(一条頼氏)・一条少将能房(一条能房)・前因幡守師憲朝臣(源師憲)・伊賀少将隆経朝臣、文章博士仲章朝臣(源仲章)が続きました。
(続く)