宮寺の楼門に入らしめ給ふ時、右京の大夫義時、俄かに心神違例の事ありて、御剣を仲章の朝臣に譲りて罷り去り給ふ。神宮寺御解脱の後に於て、小町の御亭に帰らしめ給ふ。夜陰に及びて神拝の事畢つて、やうやう罷り出でんとするところに、いづこよりともなきに、女房中の下馬の階の辺りより、薄衣着たるが、二三人程走るとも見えし。いつしか寄りけん。石階の間に窺ひ来たりて、薄衣うちのけ、細身の太刀を抜くとぞ見えし。右大臣殿を斬り奉る。一の太刀をば笏にて合はさせ給ふ。次の太刀にて、斬られ伏させ給ひぬ。「広元やある」とぞ仰せられける。次の太刀に文章博士斬られぬ。次の太刀に伯耆の守盛憲斬られ、疵を被つて次の日死す。これを見て一同に、「あ」とばかり戦慄きけり。供奉の公卿・殿上人はさておきぬ。辻々の随兵、所々のかがり火、東西にあわて、南北に馳走す。その音億千の雷の如し。
宮寺([神宮寺]=[神社に付属して建てられた寺])の楼門([二階造りの門])を入ろうとした時、右京大夫義時(北条義時)は、急に気分が悪くなって、剣を仲章朝臣(源仲章)に渡して宮(鶴岡八幡宮)を出て行きました。北条義時は神宮寺から離れて、鎌倉小町(神奈川県鎌倉市。美女が住んでいたか?)の亭([あばらや])に帰りました。夜陰([夜中])になって神拝([参拝])が終り、源実朝が宮から出ようとした時、どこからともなく、女房たちが下馬していた階([下馬先]=[社寺・城門などの前で、下馬札が立ててある場所])のあたりより、薄衣を着て、二三人ほど走って来るのが見えました。いつの間に近付いたのでしょうか。石階([石の階段])から様子を覗っていましたが近付いて、薄衣を払いのけると、細身の太刀を抜いたようでした。右大臣殿(源実朝)を斬りました。一の太刀は実朝が笏で受け止めました。次の太刀で、斬り倒されました。実朝は「広元(大江広元)はいるか」と申しました。次の太刀で文章博士(源仲章)が斬られました。次の太刀で伯耆守盛憲(?)が斬られ、疵を負って次の日に亡くなりました。これを見て一同に、「あっ」と恐れをなしました。供奉の公卿・殿上人はその場に立ち竦みました。辻々の随兵([随行の兵])は、所々のかがり火を手に持ち、東西に急ぎ、南北に奔走しました。その音は億千の雷を落としたようでした。
(続く)