さて車に乗つて宿所へ帰り、障子の内に倒れ伏し、ただ泣くよりほかのことぞなき。母や妹これを見て、いかにやいかにと問ひけれども、祗王とかうの返事にも及ばず、具したる女に尋ねてこそ、さることありとも知つてげれ。さるほどに毎月送られける百石百貫をも押し止められて、今は仏御前の所縁の者どもぞ、始めて楽しみ栄えける。京中の上下、この由を伝へ聞いて、「まことや祗王こそ、西八条殿より暇賜はつて出だされたんなれ。いざや見参して遊ばん」とて、あるひは文を遣はす者もあり、あるひは使者を立つる人もありけれども、祗王、今さらまた人に対面して、遊び戯むるべきにもあらねばとて、文をだに取り入るることもなく、まして使ひを相知らふまでもなかりけり。祗王これにつけても、いとど悲しくて、甲斐なき涙ぞこぼれける。かくて今年も暮れぬ。明くる春にもなりしかば、入道相国、祗王が許へ使者を立てて、「いかに祗王、その後は何事かある。仏御前があまりにつれづれげに見ゆるに、参つて今様をも歌ひ、舞ひなどをも舞うて、仏慰めよ」とぞのたまひける。祗王とかうの御返事にも及ばず、涙を抑へて伏しにけり。入道重ねて、「何とて祗王は、ともかうも返事をば申さぬぞ。参るまじきか。参るまじくは、そのやうを申せ。浄海も計らふ旨あり」とぞのたまひける。母刀自これを聞くに悲しくて、泣く泣く教訓しけるは、「何とて祗王はともかうも御返事をば申さで、かやうに叱られ参らせんよりは」と言へば、祗王涙を抑へて申しけるは、「参らんと思ふ道ならばこそ、やがて参るべしとも申すべけれ。中々参らざらんもの故に、何と御返事をば申すべしとも思えず。この度召さんに参らずは、計らふ旨ありと仰せらるるは、定めて都の外へ出ださるるか、さらずは命を召さるるか、これ二つにはよも過ぎじ。たとひ都を出ださるるとも、嘆くべき道にあらず。また命を召さるるとも惜しかるべき我が身かは。
祗王は車に乗って宿所に帰り、障子に倒れ伏して、ただ泣くばかりでした。母(刀自)や妹(祗女)はその姿を見て、さてどうしたことだと問いましたが、祗王は何も返事しませんでした、お供の女に訊ねて、事情を知ったのでした。やがて毎月送られていた百石([一石]=[百升]=[米150kg])百貫([一貫]=[1000文])も止められて、今では仏御前に縁のある者たちに、送られるようになりました。京中の身分の高い者そうでない者たちは、このことを聞いて、「祗王は、西八条殿(清盛の殿)から暇を出されて追い出されたそうだ。さあ祗王に逢いに行こうではないか」と言って、ある者は文を遣わし、ある者は使者を立てましたが、祗王は、今さらまた人に会って、遊び戯れるのもいやだと、文を受け取ることもなく、ましては使いに会うこともありませんでした。祗王はこのような目に遭うのさえ、いっそう悲しくなって、どうしようもなく涙がこぼれました。こうして今年も暮れました。年が明けて春になると、清盛は、祗王の許に使者を立てて、「さて祗王よ、その後はどうしておるか。仏御前があまりに退屈そうなので、参って今様([新様式の歌謡])でも歌い、舞いでも舞って、仏御前を楽しませよ」と言いました。祗王は何も返事せず、涙を抑えて伏してしまいました。清盛は重ねて、「どうして祗王は、何も返事をしないのだ。参らないつもりなのか。参るつもりがないなら、その訳を話せ。わし(浄海は清盛の俗名)にも考えがあるぞ」と言いました。母の刀自はこれを聞くと悲しく鳴って、泣きながら祗王を諭すには、「そうしてお前は返事をしないのですか、お叱りを受ける前に返事なさい」と言うと、祗王は涙を抑えて言うには、「参りたくないのです、どうしてすぐに参るなどと返事できましょうか。参らないものを、何と返事すればよいのかわかりません。この度呼ばれて参らなければ、お考えがあるとのことですが、きっと都の外に追い出されるか、そうでなければ命を取られるか、この二つのどちらかでしょう。たとえ都を追い出されたところで、嘆くほどのことはありません。また命を取られても何を惜しむべき我が身でしょうか。
(続く)