これも世澆季に及んで、人梟悪を先とする故なり。主上、院の仰せを常は申し返させおはしましける中に、人耳目を驚かし、世もつて大きに傾け申すことありけり。故近衛の院の后、太皇太后宮と申ししは、大炊の御門の右大臣公能公の御娘なり。先帝に遅れ奉らせ給ひて後は、九重の外、近衛河原の御所にぞ移り住ませ給ひける。前の后の宮にて、かすかなる御有様にて渡らせ給ひしが、永暦の頃ほひは、御歳二十二三にもやならせましましけん、御盛りも少し過ぎさせおはしますほどなり。されども、天下第一の美人の聞こえましましければ、主上色にのみ染める御心にて、密かに高力士に詔じて、外宮にひき求めしむるに及んで、この大宮の御所へ、密かに御艶書あり。
世末にもなって、人は梟悪([人の道に背くこと])を真っ先に追い求めるためでした。主上(二条天皇)は、院(近衛院)の命じることにいつも逆らって、人を驚かせていましたが、この世の末にあってさらに信じられないようなことを口にしました。故近衛院の后、太皇太后宮([先々代の天皇の皇后])と申すのは、大炊御門右大臣公能公(徳大寺公能)の娘でした(藤原多子です)。先帝(近衛院)に先立たれて後は、九重([宮中])の外、近衛河原(今の京都市上京区)の御所に移り住みました。前の后の宮で、ひっとりと過ごしていましたが、永暦(二条天皇の御時)の頃は、二十二三歳になって、盛りも少し過ぎていました。けれども、天下第一の美人と言われていましたので、主上(二条天皇。近衛院は二条天皇の叔父にあたります)はすっかり魅了されて、密かに高力士(高力士は、唐玄宗の腹心)に命じて、外宮(太皇太后宮)を内裏に参るようにと、大宮([太皇太后宮])の御所へ、密かに艶書([ラブレター])を届けました。
(続く)