さるほどに屋島には、阿波の民部成良が嫡子、田内左衛門教能は、伊予の河野の四郎が、召せども参らぬを攻めんとて、三千余騎で、伊予へ越えたりしが、河野をば討ち漏らしぬ。家の子郎等百五十人が首斬つて、屋島の内裏へ参らせたるを、「内裏にて、賊首の実検しかるべからず」とて、大臣殿の御宿所にて、首どもの実検しておはしけるところに、者ども、「高松の在家より火出いで来たり」とて、ひしめきけり。「昼で候へば、手過ちにては、よも候はじ。いかさまにも、敵の寄せて火をかけたると思え候ふ。定めて大勢でぞ候ふらん。取り籠められては敵ひ候ふまじ。疾う疾う召さるべく候ふ」とて、総門の前の水際に、いくらも付け並べたる船どもに、我も我もと慌て乗り給ふ。御所の御船には、女院、北の政所、二位殿以下の女房たち召されけり。大臣殿父子は、一つ船にぞ乗り給ふ。そのほかの人々は、思ひ思ひに取り乗つて、あるひは一町ばかり、あるひは七八反五六反など、漕ぎ出だしたるところに、源氏の兵ども、直兜七八十騎、総門の前の渚に、つつとぞ打ち出でたる。潮干潟の、折節潮干る盛りなりければ、馬の潮干る盛りなりければ馬の烏頭、鞅尽くし、太腹に立つ所もあり、それより浅き所もあり。蹴上る潮の霞とともに、しぐらうだる中より、白旗ざつと差し上げたれば、平家は運尽きて、大勢とこそ見てげれ。判官敵に小勢と見えじとて、五六騎、七八騎、十騎ばかり、うち群れうち群れ出で来たり。
その頃屋島では、阿波民部成良(田口成良)の嫡子である、田内左衛門教能(田口教能)が、伊予国の河野四郎(河野通信)が、命じても参らないので攻めようとしたので、三千騎余りで、教能は伊予国へ向かいましたが、河野(通信)を討ち漏らしました。河野(通信)は教能の家の子([一族の者])郎等([家来])百五十人の首を斬って、屋島の内裏へ参りました、「内裏で、賊首([賊の首])の首実検をするべきではない」と、大臣殿(平宗盛。清盛の三男)の宿所で、首実検していましたが、兵たちが、「高松の在家より火が出ました」と言って、騒ぎになりました。宗盛は「昼であれば、手過ち([過失による出火])では、決してないだろう。どう考えても、敵が攻めて火を放ったと思う。きっと敵は大勢に違いない。取り囲まれてはどうしようもない。早く天皇(第八十一代安徳天皇)を船に召せ」と申して、総門([正門])の前の水際に、いくつも並べた船に、我も我もと慌てて乗り込みました。御所の船には、女院(建礼門院=平徳子)、北の政所(平完子。摂政関白近衛基通の正室)、二位殿(平清盛の継室時子)をはじめとする女房たちが乗りました。大臣殿父子(清盛の三男平宗盛とその嫡男清宗)は、同じ船に乗りました。その他の者たちは、それぞれ思い思いの船に取り乗って、ある船は一町(約100m)ばかり、ある船は七八五六反(約50~80m)ほど、漕ぎ出したところに、源氏の兵たちが、直兜([一同そろって鎧兜に身を固めること])で七八十騎、総門の前の渚に、さっと現れました。潮干潟は、ちょうど潮干([引き潮])の盛りでしたので、馬の烏頭([馬の後脚の、外に向いてとがった関節])、鞅尽([鞅=鞍橋を固定するために馬の胸から鞍橋の前輪にかける緒。が馬の胸につく所])、太腹([腹のふくらんでたれた部分])に届く所もあり、それより浅い所もありました。馬が蹴り上げる潮が霞と、混ざり合う中に、白旗(源氏の旗印)を一斉に差し上げるたので、平家の運は尽きて、源氏は大勢いるように思えました。判官(源義経)は敵(平家)に小勢と悟られないように、五六騎、七八騎、十騎に分けて、群がって現れたのでした。
(続く)