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「平家物語」勝浦(その6)

さるほどに屋島には、阿波あはの民部成良しげよしが嫡子、田内左衛門でんないざゑもん教能のりよしは、伊予の河野かはの四郎しらうが、召せどもまゐらぬを攻めんとて、三千余騎で、伊予へ越えたりしが、河野をば討ち漏らしぬ。いへの子郎等らうどう百五じふ人が首斬つて、屋島の内裏へまゐらせたるを、「内裏にて、賊首の実検しかるべからず」とて、大臣殿の御宿所にて、首どもの実検しておはしけるところに、者ども、「高松の在家より火出いで来たり」とて、ひしめきけり。「昼でさふらへば、手過ちにては、よも候はじ。いかさまにも、かたきの寄せて火をかけたると思え候ふ。定めて大勢おほぜいでぞ候ふらん。取り籠められては敵ひ候ふまじ。う疾う召さるべく候ふ」とて、総門のまへ水際みぎはに、いくらも付け並べたる船どもに、我も我もと慌て乗り給ふ。御所の御船には、女院、北の政所まんどころ、二位殿以下いげの女房たち召されけり。大臣殿父子ふしは、一つ船にぞ乗り給ふ。そのほかの人々は、思ひ思ひに取り乗つて、あるひは一町いつちやうばかり、あるひは七八反五六反など、漕ぎ出だしたるところに、源氏のつはものども、直兜ひたかぶと七八十騎、総門の前の渚に、つつとぞ打ち出でたる。潮干潟しほひがたの、折節をりふし潮干しほひる盛りなりければ、むまの潮干る盛りなりければ馬の烏頭からすがしら鞅尽むながいづくし、太腹に立つ所もあり、それより浅き所もあり。蹴上るしほの霞とともに、しぐらうだる中より、白旗しらはたざつと差し上げたれば、平家は運尽きて、大勢とこそ見てげれ。判官かたきに小勢と見えじとて、五六騎、七八騎、十騎ばかり、うち群れうち群れ出で来たり。




その頃屋島では、阿波民部成良(田口成良)の嫡子である、田内左衛門教能(田口教能)が、伊予国の河野四郎(河野通信みちのぶ)が、命じても参らないので攻めようとしたので、三千騎余りで、教能は伊予国へ向かいましたが、河野(通信)を討ち漏らしました。河野(通信)は教能の家の子([一族の者])郎等([家来])百五十人の首を斬って、屋島の内裏へ参りました、「内裏で、賊首([賊の首])の首実検をするべきではない」と、大臣殿(平宗盛むねもり。清盛の三男)の宿所で、首実検していましたが、兵たちが、「高松の在家より火が出ました」と言って、騒ぎになりました。宗盛は「昼であれば、手過ち([過失による出火])では、決してないだろう。どう考えても、敵が攻めて火を放ったと思う。きっと敵は大勢に違いない。取り囲まれてはどうしようもない。早く天皇(第八十一代安徳天皇)を船に召せ」と申して、総門([正門])の前の水際に、いくつも並べた船に、我も我もと慌てて乗り込みました。御所の船には、女院(建礼門院=平徳子とくこ)、北の政所(平完子さだこ。摂政関白近衛基通もとみちの正室)、二位殿(平清盛の継室時子ときこ)をはじめとする女房たちが乗りました。大臣殿父子(清盛の三男平宗盛むねもりとその嫡男清宗きよむね)は、同じ船に乗りました。その他の者たちは、それぞれ思い思いの船に取り乗って、ある船は一町(約100m)ばかり、ある船は七八五六反(約50~80m)ほど、漕ぎ出したところに、源氏の兵たちが、直兜([一同そろって鎧兜に身を固めること])で七八十騎、総門の前の渚に、さっと現れました。潮干潟は、ちょうど潮干([引き潮])の盛りでしたので、馬の烏頭([馬の後脚の、外に向いてとがった関節])、鞅尽([鞅=鞍橋くらぼねを固定するために馬の胸から鞍橋の前輪にかける緒。が馬の胸につく所])、太腹([腹のふくらんでたれた部分])に届く所もあり、それより浅い所もありました。馬が蹴り上げる潮が霞と、混ざり合う中に、白旗(源氏の旗印)を一斉に差し上げるたので、平家の運は尽きて、源氏は大勢いるように思えました。判官(源義経)は敵(平家)に小勢と悟られないように、五六騎、七八騎、十騎に分けて、群がって現れたのでした。


続く


by santalab | 2013-10-21 07:18 | 平家物語

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