大衆神明の霊験あらたなることの尊さに、皆掌を合はせて随喜の感涙をぞ催しける。「その儀ならば、行き向かつて奪ひ留め奉れや」と言ふほどこそありけれ、雲霞の如くに発向す。あるひは志賀唐崎の浜路に歩み続ける大衆もあり。あるひは山田矢橋の湖上に舟押し出だす衆徒もあり。これを見てさしも厳しげなりつる追つ立ての鬱使、領送使、散り散りに皆逃げ去りぬ。大衆国分寺へ参り向かふ。先座主大きに驚かせ給ひて、「およそ勅勘の者は、月日の光にだに当たらずとこそ承れ。いかにいはんや、時刻を巡らさず、急ぎ追ひ下さるべしと、院宣宣旨のなりたるに、少しも安らふべからず。衆徒疾う疾う帰り上り給ふべし」と、橋近く居出でてのたまひけるは、「三台槐門の家を出でて、四明幽渓の窓に入つしよりこの方、広く円宗の教法を学して、顕密両宗を学びき。ただ我が山の興隆をのみ思へり。また国家を祈り奉ることも疎かならず。衆徒を育む心ざしも深かりき。両所三聖定めて照覧し給ふらん。身に過つことなし。無実の罪によつて、遠流の重科を被れば、世をも人をも神をも仏をも、恨み奉る方なし。まことにはるばるとこれまで訪ひ来たり給ふ衆徒の芳志こそ、生々世々にも報じ尽くし難けれ」とて、香染めの御衣の袖を絞りも敢へさせ給はねば、大衆も皆鎧の袖をぞ濡らしける。
大衆(延暦寺の僧)たちは神明(山王)の霊験あらたかなることを尊び、皆手を合わせて随喜の涙を流しました。「山王が助けてくれるのならば、行き向かって明雲を奪い取ろう」と叫んだかと思うと、雲霞のごとく大勢で出発しました。ある者は志賀(今の滋賀県大津市)唐崎(これも今の滋賀県大津市。歌枕として有名)の浜路を進みました。ある者は山田(今の滋賀県草津市)矢橋(これも今の滋賀県草津市)の湖(琵琶湖)に舟を出す衆徒もいました。これを見ていかめしそうな鬱使([検非違使庁の役人])、領送使([流罪人を配所まで護送した役人])も、散り散りになって皆逃げ去ってしまいました。大衆は国分寺(今の滋賀県大津市にあったそうな。今に残っているのとは別らしい)へ向かいました。先座主(明雲)はたいそう驚いて、「勅勘([天皇から罰を受けること])の者は、月日の光さえも当たることがないと申すぞ。その上、時を経ずに、急ぎ追い下すようにと、院宣宣旨があったので、少しも安心することはない。衆徒たちは一刻も早く帰りなさい」と言ってから、橋の近くまで見送って言うには、「わたしは三台槐門([三公]=[太政大臣・左大臣・右大臣])の家を出て(明雲は、太上大臣源雅実の孫)、四明([四明ヶ岳]=[比叡山の西山頂])の幽渓([谷])にある僧房に入ってからというもの、広く円宗([天台宗])の教法を学び、顕密([顕教=密教以外の仏教と密教])両宗を覚えた。ただ我が山(比叡山)が栄えることだけを考えていた。また国家を祈ることも疎かにしなかった。衆徒を育てる気持ちも深かった。両所三聖(日吉大社の大宮、二宮、聖真子社のことらしい)は、きっと見ておられることだろう。罪を犯したことはない。無実の罪によって、遠流の重科([重罪])を受けるのならば、世も人も神も仏も、恨むところはない。はるばるとここまで訪ねてくれた衆徒の芳志([親切な心づかい])には、生々世々([未来永劫])報いることはできない」と言って、香染め([丁子を煎じて染めたもの。黄色味を帯びた薄茶色])の袖も絞らずにいたので、大衆たちも皆鎧の袖を涙で濡らしました。
(続く)