小松の大臣は、例の善悪に騒ぎ給はぬ人にておはしければ、はるかに日長けて後、嫡子権の佐少将維盛を、車の後に乗せつつ、衛府四五人、随身二三人召し具して、軍兵どもをば一人も具せられず、まことに大様げにておはしたれば、入道を始め奉て、一門の人々、皆思はず気にぞ見給ひける。大臣中門の口にて、御車より下り給ふところへ、貞能つと参つて、「などこれほどの御大事に、軍兵をば一人も召し具せられ候はぬやらん」と申しければ、大臣、「大事とは天下のことをこそ言へ。かやうの私事を、大事と言ふやうやある」とのたまへば、兵仗を帯したりける兵ども、皆そぞろいてぞ見えたりける。その後大臣、大納言をばいづくに置き奉たるやらんと、ここかしこを引き開け引き開け見ふに、ある障子の上に、蜘手結うたるところあり。ここやらんとて開けられたれば、大納言おはしけり。涙にむせびうつ伏して、目も見上げ給はず。「いかにや」とのたまへば、その時見つけ奉て、うれしげに思はれたる気色、地獄にて罪人どもが、地蔵菩薩を見奉るらんも、かくやと思えて哀れなり。「何事にて候ふやらん。今朝よりかかる憂き目に遭ひ候ふ。さて渡らせ給へば、さりともとこそ深う頼み奉て候へ。平治にもすでに誅せらるべかりしを、御恩をもつて首を継がれ参らせ、あまつさへ正二位の大納言までへ上がつて、歳すでに四十に余り候ふ御恩こそ、生々世々にも報じ尽くし難う候へども、今度もまた甲斐なき命を助けさせおはしませ。さだにも候はば、出家入道仕り、いかならん片山里にも籠り居て、一筋に後世菩提の勤めを営み候はん」とぞ申されける。大臣、「さ候へばとて、御命失ひ奉るまでのことはよも候はじ。たとひさ候ふとも、重盛かうて候へば、御命には代はり参らせ候ふべし。御心安う思し召され候へ」とて、父の禅門の御前におはして、「あの大納言失はれんことは、よくよく御趣意候ふべし。その故は先祖修理の大夫顕季、白河の院に召し使はれ参らせしよりこの方、家にその例なき正二位の大納言にへ上がつて、あまつさへ当時、君無双の御いとほしみ、首を刎ねられんことしかるべうも候はず。ただ都のほかへ出だされたらんに、事足り候ひなんず。
小松大臣(平清盛の嫡男、重盛)は、善き悪しきに動じない者でしたので、日がすっかり暮れてから、嫡子である権佐少将維盛を、車のろに乗せて、衛府([衛門府の官人])四五人、随身([近衛府の官人])二三人を連れて、軍兵たちは一人も引き連れることなく、まことに大様([落ち着きがあって、小さなことにこせこせしない様])でしたので、入道(平清盛)をはじめ、平家一門の者たちは、皆驚いた様子でした。大臣(重盛)が中門の入口で、車から下りると、貞能(平貞能)が急ぎ参って、「どうしてこの一大事に、軍兵を一人も連れて来られなかったのですか」と申すと、重盛は、「大事とは天下のことを言うものだ。このような私事を、大事と言ってどうする」とどなったので、兵仗([武器])を身に付けた兵たちは、皆落ち着きを失いました。その後重盛は、大納言(藤原成親)はどこにいるのかと、あちらこちらを引き開けて見ると、ある障子の上に、蜘手([材木などを四方八方に打ち違えて組んだもの])で閉じたところがありました。ここに違いないと障子を開けると、大納言がいました。涙にむせびうつ伏して、顔も上げることができない様子でした。「どうなされました」と重盛が言うと、大納言は重盛だと気付いて、うれしそうでした、地獄の罪人たちが、地蔵菩薩を見たときも、このようであろうと思えば哀れでした。大納言は「どういう訳かは知らぬ。今朝よりこのような憂き目に遭っておるのだ。こうして重盛殿が訪ねて来たのだから、ことさら頼りにしたいと思う。平治の時(平治の乱)の時にすでに誅たれるはずであったのを、重盛殿の恩をもって首を継ぐことができ、おまけに正二位の大納言まで上がって、歳はすでに四十歳を越えることができたことは、生々世々([未来永劫])報いることはできないと思うが、今度もまた甲斐のない命を助けてもらえまいか。もし命を助けてもらえたならば、出家し入道([仏道に入り修行すること])し、どのような片山里にでも籠って、ひたすら後世菩提([死後、極楽に往生して悟りを得ること])の勤めを果たそう」と申しました。重盛は、「そうはおっしゃいますが、命まで取られることはよもやないでしょう。たとえそうであったとしても、わたしがこうしてやって参ったからには、命に代えて助けましょうぞ。心配なさらぬように」と言って、父である禅門(清盛)の御前に参って、「大納言を誅つことは、よくよく考えてください。その訳は大納言の先祖修理大夫顕季(藤原顕季)が、白河院に召し使われてからというもの、家(善勝寺流)に前例なき正二位の大納言まで上がって、その上当時、君(後白河院)は他の誰よりも大納言を大切にされました、首を刎ねられる理由がありません。ただ都の外に出せば、事は足りるのではありませんか。
(続く)