その最期の有様やうやうにぞ聞こえける。はじめは酒に毒を入れて参らせけれども、叶はざりければ、二丈ばかりありける岸の下に菱を植ゑて、突き落とし奉れば、菱に貫かつてぞ失せられける。無碍にうたてきことどもなり。例少なうぞ聞こえし。北の方この由を伝へ聞き給ひて、「あはれいかにもして、変はらぬ姿を、今一度見もし、見えばやと思ひてこそ、今日まで様をば変へざりつれ。今は何にかはせん」とて、菩提院と言ふ寺におはして、御様を変へ、型のごとくの仏事営み給ふぞ哀れなる。この北の方と申すは、山城守敦方の娘、後白河法皇の御思ひ人、並びなき美人にておはしけるを、この大納言ありがたき御寵愛の人にて、下し賜はられたりけるとかや。若君姫君も、面々に花を手折り、閼伽の水を結んで、父の後世を弔ひ給ふぞ哀れなる。かくて時移り事去つて、世の変はり行く有様は、ただ天人の五衰に異ならず。
成親(藤原成親)の最期の様子が聞こえてきました。はじめは酒に毒を入れて飲みましたが、死ねなかったので、二丈(約6m)ばかりある崖の下に串を立てて、崖から突き落とされて、串に刺さって死んだのでした。異様にむごい死に方でした。例のないことでした。成親の妻はこれを伝え聞いて、「ああどうにかして、昔と変わらぬ姿を、もう一度見て、逢いたいと思っていたからこそ、今日まで様を変えて出家しなかったものを。今となってはほかにすることはありません」と言って、菩提院(今の京都市西京区にある宝菩提院願徳寺)という寺に出向いて、様を変え、例にならって仏事を営むことはあわれでした。この北の方と言うのは、山城守敦方(諏訪敦方=粟沢敦方)の娘で、後白河法皇の愛人、比べる者のないほどの美人でしたが、後白河法皇の寵愛の女を、成親に与えられたということです。若君姫君も、それぞれ花を供え、閼伽([仏に手向ける水])の水に交わり、父(成親)の後世([来世の安楽])を弔うことは悲しいことでした。こうして時は移り事件は過ぎ去って、世の中が変わっている有様は、まったく天人の五衰([天人の死に際して現れるという五種の衰えの相])を現していました。
(続く)