堂衆と言ふは、学生の所従なりける童の、法師になりたるや、もしは中間法師ばらにてもやありけん。一年金剛寿院の座主、覚尋権僧正治山の時、三塔に結番して、夏衆と号して仏に花参らせし者どもなり。しかるを近年行人とて、大衆をもことともせず、かく度々の戦にうち勝ちぬ。堂衆ら師主の命を背いて、すでに謀反を企だつ、すみやかに誅伐せらるべき由、大衆公家へ奏聞し、武家に触れ訴たふ。これによつて入道相国院宣を承つて、紀の国の住人、湯浅の権の守宗重以下、紀内の兵二千余人、大衆にさし添へて、堂衆を攻めらる。堂衆日頃は東陽坊にありけるが、これを聞いて、近江の国三ヶの庄に下向して、数多の勢を率してまた登山し、早尾坂に城郭を構へて立て籠もる。同じき九月二十日の日の辰の一点に、大衆三千人、官軍二千余人、都合その勢五千余人、早尾坂に押し寄せて、時をどつとぞ作りける。城の内より石弓外しかけたりければ、大衆官軍数を尽くして討たれにけり。大衆は官軍を先立てんとす、官軍はまた大衆を先立てんと争ふほどに、心々になつて、はかばかしうも戦はず。堂衆に語らふ悪党と言ふは、諸国の窃盗強盗山賊海賊らなり。欲心熾盛にして、死生不知のやつばらなりければ、我一人と思ひ切つて戦ふほどに、今度もまた学生戦に負けにけり。
堂衆というのは、学生([学問修行を専門とする僧])が召し使う童が、法師になったものや、または中間法師([雑用に使われる身分の低い法師])たちのことでした。一昨年金剛寿院(かつて比叡山にあった堂らしい)の座主、覚尋権僧正が山を治めていた時、三塔(延暦寺)に結番([順番を定めて交代で出仕し、警備などに当たること])していましたが、夏衆([夏安居=夏の期間、外出せずに一所に籠って修行をすること。に参加している僧衆])するといって仏に花を具えた者たちでした。近年では堂衆と名乗って、大衆([僧])たちを物ともせず、こうして数度の戦に勝ってきました。堂衆たちは師主の命令に背いて、謀反を企てました、大衆たちはすみやかに誅伐するように、公家へ奏聞し、武家にも知らせ訴えました。これによって入道相国(平清盛)は院宣を受け取って、紀伊国の住人、湯浅権守宗重(湯浅宗重)以下、兵二千人余りを、大衆に付けて、堂衆を攻めました。堂衆たちは日頃東陽坊(これもかつて延暦寺にあった僧坊)にいましたが、兵が攻めてくることを聞いて、近江国三ヶ庄(今の滋賀県大津市木戸)に向かって、数多くの勢を連れてまた山に上り、早尾坂(今の滋賀県大津市にある早尾神社のあたり)に城郭を構えて立て籠もりました。同じ治承元年(1177)九月二十日の辰の一点(午前八時頃)に大衆三千人、官軍二千人余り、合わせてその勢五千人余りが、早尾坂に押し寄せて、時の声をどっと上げました。城の内から石弓が放たれたので、大衆官軍は数多く討たれました。大衆は官軍を先にいかせようとし、官軍は大衆を先立たせようと争ったので、心はばらばらになって、大した戦いをしませんでした。堂衆の味方をする悪党というのは、諸国の窃盗([どろぼう])強盗山賊海賊たちでした。欲心盛んで、死生を気にするような者ではなく、我一人だけしかいないと思い切って戦ったので、今度もまた学生は戦いに負けました。
(続く)