遠天竺に仏跡を訪ふに、昔仏の法を説き給ひし竹林精舎、給孤独園も、この頃は狐狼野干の棲みかとなつて、礎のみや残るらん。白鷺池には水絶えて、草のみ深く茂れり。退凡下乗の卒塔婆も苔のみ生して傾きぬ。震旦にも天台山、五台山、白馬寺、玉泉寺も、今は住侶なき様に荒れ果てて、大小乗の法文も、箱の底にや朽ちぬらん。我が朝にも南都の七大寺荒れ果てて、八宗九宗も跡絶え、愛宕高雄も、昔は堂塔軒を並べたりしかども、一夜の内に荒れ果てて、天狗の住みかと成り果てぬ。さればにや、さしもやんごとなかりつる天台の仏法も、治承の今に及んで、滅び果てぬるにや。心ある人の嘆き悲しまぬはなかりけり。何者の仕業にてやありけん、離散しける僧の坊の柱に、一首の歌をぞ書き付けたる。
祈りこし 我がたつ杣の ひきかへて 人なき峰と 荒れや果てなむ
これは昔
伝教大師、
当山草創の始め、
阿耨多羅三藐三菩提の仏たちに祈り
申させ給ひしことを、今思ひ出でて詠みたりけるにや。いと優しうぞ聞こえし。
八日は薬師の日なれども、南無と唱ふる
声もせず、
卯月は
垂迹の月なれども、
幣帛を捧ぐる人もなく、あけの玉垣神さびて、
注連縄のみや残るらん。
遠く天竺([インド])に仏跡([釈迦の遺跡])を訪ねると、昔釈迦が仏法を説いた竹林精舎([摩訶陀王国の王舎城北門付近にあった寺院])、給孤独園([祇園精舎])も、この頃では狐狼([狐と狼])野干([キツネ])の棲みかとなって、礎が残るのみでした。白鷺池([摩訶陀王国の王舎城の竹林園にあった池])の水も絶えて、草だけが深く茂るだけでした。退凡下乗([摩訶陀国王の頻婆娑羅によって釈迦説法の地、霊鷲山に建てられた二本の卒塔婆に示された語])が書かれた卒塔婆も苔生して傾いていました。震旦([中国])にも天台山([中国仏教の三大霊場の一。天台宗発祥の山])、五台山([中国仏教の三大霊場の一。文殊菩薩が住む清涼山とされている]らしい)、白馬寺([中国最初の仏寺]らしい)、玉泉寺も、今は住侶がいないと思えるほど荒れ果てて、大小乗の法文([経・論・釈など仏法を説き明かした文章])も、箱の底で朽ちていました。我が国でも南都([奈良])の七大寺([南都七大寺]=[東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺])が荒れ果てて、八宗九宗([八宗]=[南都六宗の倶舎・成実・律・法相・三論・華厳および平安二宗の天台・真言]、[九宗]=[八宗に禅宗あるいは浄土宗を加えたもの])も絶えて、昔は堂塔が軒を並べていましたが、一夜の内に荒れ果てて、天狗の住みかと成り果てました。ならば、あれほど貴い天台の仏法も、治承の今に及んで、滅び果てるのでしょうか。心ある人は皆嘆き悲しみました。何者の仕業でしょうか、離散した僧房の柱に、一首の歌が書き付けてありました。
長年わたしが祈りを捧げてきた我が山も、いつかは人の住まない峰となって、荒れ果ててしまうのだろうか。
これは昔伝教大師(最澄。延暦寺の開祖)が、当山を草創([神社・寺院などを初めて建てること])した時に、阿耨多羅三藐三菩提([一切の真理をあまねく知った最上の智慧])の仏たちに祈った気持ちを、思い起こして詠んだ歌でした。素直な気持ちを詠んだ歌でした。八日は薬師の日(薬師如来の縁日)でしたが、南無と唱える声も聞こえず、卯月([陰暦四月])は垂迹の月([山王権現が日本に
迹を垂れたとする月])でしたが、幣帛を奉納する人もなく、あけの玉垣([神域の内外を区切る斎垣を赤く塗ったもの])は古びて、注連縄([神を祭る神聖な場所を他の場所と区別するために張る縄])だけが残るのみでした。
(続く)