「あはれ浄海、戦の陣ならば、さりともこれほどまでは臆せじものを」とぞ、後にはのたまひける。御験者には、房覚昌運両僧正、俊堯法印、豪禅実全両僧都、各々僧伽の句どもあげ、本寺本山の三宝、年来所持の本尊たち、責めふせ責めふせ揉まれければ、まことにさこそはと思えて尊かりける中に、折節法皇は、今熊野へ、御幸なるべきにて、御精進のついでなりけるが、錦帳近く御ご座ざあつて、千手経を打ち上げ打ち上げ遊ばされけるにぞ、今一際事変はつて、さしも踊り狂ひける御寄座どもが縛も、しばらくうち鎮めけり。法皇仰せなりけるは、「たとひいかなる御物の怪なりとも、この老法師がかくて候はんには、いかでか近づき奉るべき。なかんずく今顕はるるところの怨霊は皆我が朝恩をもつて人となりたるものぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぞんぜずとも、いかでかあに障碍をなすべきや。すみやかに罷り退き候へ」とて、「女人生産し難からんときに臨んで、邪魔遮障し、苦忍び難からんにも、心をいたして大悲呪を称誦せば、鬼神退散して、安楽に生ぜん」と遊ばいて、皆水晶の御数珠を押し揉ませたまへば、御産平安のみならず、皇子にてこそましましけれ。
「ああこの浄海(平清盛の法名)、戦の陣であれば、さすがにこれほどまでに臆することはないものを」と、後に話しました。験者([修験道の行者])には、房覚(源信雅の子らしい)昌運両僧正、俊堯法印([源顕仲の子。第五十八世天台座主])、豪禅実全([徳大寺公能の子])両僧都は、各々僧伽の句(御名を読み上げること)を続けて、本寺本山([本寺]=[本山])の三宝(ここでは仏)、年来崇め奉る本尊に、祈願し手を合わせたので、まことにありがたく思っていると、ちょうど法皇(後白河院)が、今熊野(今の京都市東山区にある観音寺)の修行に出かける途中で、錦帳の近くにお座りになって、千手経([千手観音とその陀羅尼について説いた経])を読み上げたので、趣は打って変わって、しばらくの間踊り狂っていた寄座([修験者や巫子が神降ろしをする際に、神霊を乗り移らせる童子])の縛([煩悩による狂気])もしばらく静まりました。後白河院がおっしゃるには、「たとえどんな物の怪([怨霊])であろうと、この老法師であるわたしがこうして経を唱えたなら、近づくことも叶わぬであろう。その上今顕われた怨霊は、もとは我が朝恩によって世に認められた者たちではないか。たとえ報謝([徳に感謝すること])の心を持たずとも、何の故あって障碍([邪魔])をすることがあろうか。すみやかに退散せよ」と言って、「女性がお産に苦しむともその邪魔を遮障([さえぎって、進むのを妨げること])し、苦しみが耐え難くとも、心を尽くして大悲呪([千手観音の功徳を説く八十二句の陀羅尼])を唱えれば、鬼神も退散して、安楽にお産もすむにちがいない」とおっしゃって、皆水晶([総水晶])の数珠を手を合わせ手繰れば、お産が無事に済むばかりでなく、皇子(後の安徳天皇)がお生まれになりました。
(続く)