これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面を向かふべからず。今一度本国へ帰さんと思し召さば、この矢外させ給ふな」と、心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなつたりけれ。与一鏑を取つて継がひ、よつ引いてひやうど放つ。小兵と言ふでう、十二束三伏せ、弓は強し、鏑はうら響くほどに長鳴りして、過たず扇の要際、一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家船端を叩いて感じたり。陸には源氏箙を叩いて、どよめきけり。
扇を射損じたら、弓を折り自害して、人に再び顔を見せることはできまい。もう一度本国(下野国)に帰そうと思うのならば、この矢を外させるな」と、心の内で祈ってから、目を開けば、風も少し吹き弱まって、扇も射やすくなっていました。与一(那須与一)は鏑矢([鏑と呼ぶ音響装置を付けた矢])を取って弓に継ぎ、よく引いてから矢を射ました。体は小さいといえども、十二束三伏せ([こぶし十二握りの幅に指三本の幅を加えた長さ]=[矢の長さ])の、弓の威力は強く、鏑矢は長く鳴り響いて、扇を外すことなく要際(扇を束ねた所)の、一寸(約3cm)ばかりのところを、射切りました。鏑矢は海に落ちて、扇は空に舞い上がりました。扇は春風に一度二度揺られて、海に散りました。皆紅の扇([すべて紅色])の扇が、夕日に輝いて、白波の上に漂い、浮くでもなく沈むでもなく波に揺られていました。沖では平家の兵たちが船端を叩きながら感動していました。陸では源氏の兵たちが箙([矢を入れる武具])を叩いて、どよめきました。
(続く)