折節大納言空かざりければ、数のほかにぞ加はられける。大納言六人になること、これ始め。また前の中納言より権
大納言に上がることも、後山階の大臣躬守公、宇治の大納言隆国の卿のほかは、これ始めとぞ承る。管弦の道に達し、才芸優れておはしければ、次第の昇進滞らず、太上大臣まで極めさせ給ひて、またいかなる罪の報いにや、重ねて流され給ふらん。保元の昔は、南海土佐へ移され、治承の今は、また東関尾張の国とかや。もとより罪なくして配所の月を見んと言ふことをば、心ある際の人の願ふことなれば、大臣敢へて事ともし給はず。
ちょうど大納言の職が空いていなかったので、数のほかに大納言に加えられました(つまり定員外の大納言=権大納言になったということです)。大納言が六人になったのは、これが初めてのことでした。また前中納言より権大納言に上がることも、後山階大臣躬守公(藤原躬守)、宇治大納言隆国(源隆国)のほかには、いませんでした。基通(近衛基通)は管弦の道の達人で、才芸([才知と技芸])に優れていたので、昇進は滞ることなく、太上大臣まで極めて、またどういう罪の報いか、再度流罪となったのでした。保元の昔は、南海土佐([今の高知県])に流され、治承の今は、また東関([東方の関所])尾張国に流されることとなりました。罪に関係なくして配所の月を見たいというのは、極人(風流を極めた人らしい)の願うことでしたので、基通は流罪になることを気にもしませんでした。
(続く)