しばらく世を鎮めんほど、鳥羽の北殿へ御幸を成し参らせよと、父の禅門申し候ふ」と申されたりければ、「さらば汝やがて御供仕れ」と仰せけれども、父の禅門の気色に恐れをなして、御供には参られず。「これにつけても、兄の内府には、ことのほかに劣りたるものかな。一年もかかる御目に遭ふべかりしを、内府が身に代へて制し止めてこそ、今日までも御心安かりつれ。今は諫むる者のなきとて、かうはするやらん。行く末とても頼もしからず思し召す」とて、御涙堰き敢へさ給はず。さて御車に召されけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず、北面の下郎と、さては金行と言ふ御力者ばかりぞ参りける。御車の後には、尼前一人参られけり。この尼前と申すは、やがて法皇の御乳の人、紀の二位の御事なり。
世が鎮まるまでしばらくの間、鳥羽北殿(鳥羽離宮の北殿)にお出かけになっていてくださるようにと、父の禅門(平清盛)が申しております」と申すと、「ならばおぬしも供をせよ」とおっしゃいましたが、宗盛(平宗盛。清盛の三男)は父禅門の顔色に恐れをなして、供には参りませんでした。「それにしても、兄の内府([内大臣]。平重盛のこと)には、何につけても劣っていることよ。先年もこのような目にお遭いになったが、重盛が身に代えて止まるよう制したので、今日まで安心であったのだ(「鹿谷」)。今は父(清盛)を諫める者はいない、どうしたものやら。行く末を考えると心細いことだ」と言って、涙を抑えることができませんでした。後白河院は車に乗られました。公卿殿上人([大臣、納言、参議、三位以上の者])は一人もお供しませんでした、北面武士の家来と、金行という力者([力者法師]=[髪をそった姿をし、院・門跡・寺院・公家・武家などに仕えて力仕事に携わった者])だけが一緒でした。車の後ろには、尼前([尼御前])というのは、後白河院の乳母、紀二位(藤原朝子。故信西の妻)でした。
(続く)