同じき十七日、上皇厳島御幸の御門出とて、入道相国の北の方二位殿の宿所、八条大宮へ御幸なる。その夜やがて厳島の御神事始めらる。天下よりからの御車、移しの馬など参らせらる。明くる十八日、入道相国の邸へ入らせおはします。その日の暮れ方に、前の右大将宗盛の卿を召して、「明日厳島御幸の御ついでに、鳥羽殿へ参つて、法皇の御見参に入らばやと思し召すは、相国禅門に知らせずしては、悪しかりなんや」と仰せければ、宗盛の卿、「何でふこと候ふべき」と奏せられたりければ、「さらば汝今宵鳥羽殿へ参りて、その様を申せかし」と仰せければ、畏まり承つて、急ぎ鳥羽殿へ参つて、この由奏聞せられければ、法皇はあまりに思し召す御事にて、こは夢やらんとぞ仰せける。明くる十九日、大宮の大納言隆季の卿、いまだ夜深う参つて、御幸催されけり。
同じ正月十七日、上皇(高倉院)は厳島御幸の門出として、入道相国(平清盛)の北の方である二位殿(平時子)の宿所である、八条大宮へお出かけになりました。その夜から厳島の神事([神を祭る行事])が始まりました。天下(安徳天皇)からは車、移しの馬([宮中の馬寮めれう=馬司の管理する馬])が届けられました。明くる十八日には、清盛の邸に入りました。その日の夕方に、高倉院は前右大将宗盛卿(平宗盛。清盛の三男)を呼んで、「明日厳島御幸の途中、鳥羽院(鳥羽離宮。今の京都市伏見区にあった院御所)に参って、法皇(後白河院)に会いたいと思うが、相国禅門(清盛)に知らせないのは、いかがなものか」とおっしゃると、宗盛卿は、「どうしてそのようなことをおっしゃられますか」と奏しました、高倉院は「ならばお前が今夜鳥羽殿を訪ねて、明日わたしが参ることを知らせてほしい」とおっしゃったので、宗盛は畏まり承って、急ぎ鳥羽殿に参って、これを奏聞すると、法皇(後白河院)は思いもしなかったことでしたので、これは夢ではないかとおっしゃいました。明くる十九日に、大宮大納言隆季卿(藤原隆季。清盛の父忠盛の正室、藤原宗子=池禅尼の従兄弟にあたる)が、まだ夜深いうちに参って、高倉院に御幸を促しました。
(続く)