還御の時は、鳥羽殿へは御幸もならず、すぐに入道相国の西八条の邸へぞ入らせおはします。同じき二十二日、新帝の御即位あり。大極殿にて行はるべかりしかども、一年炎上の後はいまだ造りも出だされず。大極殿なからん上は、太政官の庁にて行はるべきかと、公卿詮議ありしかば、九条殿申させ給ひけるは、「太政官の庁は、凡人の家にとらば、公文所ていの所なり。大極殿なからん上は、紫宸殿にてこそ、御即位はあるべけれ」と申させ給へば、紫宸殿にてぞ、御即位はありける。去じ康保四年十一月十一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にてありしは、主上御邪気によつて、大極殿への行幸叶はざりし御故なり。後三条の院の延久の佳例に任せて、太政官の庁にて行はるべきものをと、人々申し合はれけれども、その時の九条殿の御計らひの上は、左右に及ばず。 春宮践祚ありしかば、中宮は弘徽殿より仁寿殿へ移つて、やがて高御座へ参らせ給ふ。平家の人々皆出仕せられける中に、小松殿の公達たちは、去年大臣薨ぜられにしかば、色にて籠居せられけり。
還御([皇・法皇・三后が出かけた先から帰ること])の時は、高倉上皇は鳥羽殿(後白河院の院御所)には寄られませんでした。すぐに入道相国(平清盛)の西八条の邸宅にお入りになりました。同じ四月二十二日に、新帝(高倉上皇と清盛の娘徳子の子、安徳天皇)が即位しました。即位は大極殿([大内裏朝堂院諸殿舎の北方に建つ正殿])で行うものでしたが、一昨年炎上した後、まだ造り直されていませんでした。大極殿がないのならば、太政官庁([大内裏の内、八省院の東にあった])で行うべきかと、公卿([大臣・納言・参議])の詮議([評議])がありましたが、九条殿(九条兼実)が申すには、「太政官庁は、凡人([平民])の家に例えれば、公文所([公文書を扱った役所])のような所である。大極殿がないのならば、紫宸殿([平安京内裏の正殿])で、即位を行うべきであろう」と申したので、紫宸殿で、即位が行われました。去る康保四年(967)十一月十一日に、冷泉院(第六十三代天皇)の即位が、紫宸殿でありましたが、主上(冷泉天皇)が邪気([病気])で、大極殿へ移ることができなかったからでした。後三条院(第七十一代天皇)の延久(延久は1069~1074ですが、後三条天皇が即位したのは、治暦四年(1068)のことです)の佳例([めでたい先例])に習って、太政官庁で行うべきと、人々は申し合いましたが、その時の九条殿(九条兼実)の考えにより、紫宸殿でと決まったのでした。春宮([皇太子])が践祚([皇位を継承すること])したので、中宮(清盛の娘、徳子)は弘徽殿([皇后・中宮・女御などの住居])から仁寿殿([天皇の日常の座所])に移って、やがて高御座([紫宸殿の中央に設けられていた天皇の席])に参りました。平家の者たちは皆出席していましたが、小松殿(清盛の嫡男、重盛)の公達([子ども])たちは、去年大臣(内大臣重盛)が亡くなったので、喪服を着て閉じ籠ったままでした。
(続く)