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「平家物語」還御(その5)

還御くわんぎよの時は、鳥羽殿へは御幸ごかうもならず、すぐに入道にふだう相国しやうこくの西八でうの邸へぞ入らせおはします。同じき二じふ二日、新帝の御即位そくゐあり。大極だいこく殿にて行はるべかりしかども、一年ひととせ炎上えんしやうの後はいまだ造りも出だされず。大極殿なからんうへは、太政官だいじやうぐわんちやうにて行はるべきかと、公卿くぎやう詮議ありしかば、九でう殿まうさせ給ひけるは、「太政官の庁は、凡人のいへにとらば、公文所ていの所なり。大極殿なからんうへは、紫宸ししん殿にてこそ、御即位はあるべけれ」と申させ給へば、紫宸殿にてぞ、御即位はありける。いん康保かうほうじふぐわつ十一日、冷泉院れんぜいゐんの御即位、紫宸殿にてありしは、主上しゆしやう御邪気ごじやけによつて、大極殿への行幸ぎやうがう叶はざりし御ゆゑなり。後三条のゐん延久えんきう佳例かれいに任せて、太政官の庁にて行はるべきものをと、人々申し合はれけれども、その時の九条殿の御ぱからひの上は、左右さうに及ばず。 春宮とうぐう践祚せんそありしかば、中宮ちうぐう弘徽こうき殿より仁寿じじゆ殿へ移つて、やがて高御座たかみくらまゐらせ給ふ。平家の人々皆出仕せられける中に、小松殿の公達たちは、去年こぞ大臣おとどこうぜられにしかば、色にて籠居せられけり。




還御([皇・法皇・三后が出かけた先から帰ること])の時は、高倉上皇は鳥羽殿(後白河院の院御所)には寄られませんでした。すぐに入道相国(平清盛)の西八条の邸宅にお入りになりました。同じ四月二十二日に、新帝(高倉上皇と清盛の娘徳子の子、安徳天皇)が即位しました。即位は大極殿([大内裏朝堂院諸殿舎の北方に建つ正殿])で行うものでしたが、一昨年炎上した後、まだ造り直されていませんでした。大極殿がないのならば、太政官庁([大内裏の内、八省院の東にあった])で行うべきかと、公卿([大臣・納言・参議])の詮議([評議])がありましたが、九条殿(九条兼実かねざね)が申すには、「太政官庁は、凡人([平民])の家に例えれば、公文所([公文書を扱った役所])のような所である。大極殿がないのならば、紫宸殿([平安京内裏の正殿])で、即位を行うべきであろう」と申したので、紫宸殿で、即位が行われました。去る康保四年(967)十一月十一日に、冷泉院(第六十三代天皇)の即位が、紫宸殿でありましたが、主上(冷泉天皇)が邪気([病気])で、大極殿へ移ることができなかったからでした。後三条院(第七十一代天皇)の延久(延久は1069~1074ですが、後三条天皇が即位したのは、治暦四年(1068)のことです)の佳例([めでたい先例])に習って、太政官庁で行うべきと、人々は申し合いましたが、その時の九条殿(九条兼実)の考えにより、紫宸殿でと決まったのでした。春宮([皇太子])が践祚([皇位を継承すること])したので、中宮(清盛の娘、徳子)は弘徽殿([皇后・中宮・女御などの住居])から仁寿殿([天皇の日常の座所])に移って、やがて高御座([紫宸殿の中央に設けられていた天皇の席])に参りました。平家の者たちは皆出席していましたが、小松殿(清盛の嫡男、重盛しげもり)の公達([子ども])たちは、去年大臣(内大臣重盛)が亡くなったので、喪服を着て閉じ籠ったままでした。


続く


by santalab | 2013-11-04 07:25 | 平家物語

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