東にも、いみじうあわて騒ぐ。「さるべくて身の失すべき時にこそあんなれ」と思ふものから、「討手の攻め来たりなん時に、はかなき様にて屍を晒さじ、公と聞こゆとも、身づからし給ふ事ならねば、かつ我が身の宿世をも見るばかり」と思ひなりて、弟の時房と泰時と言ふ一男と、二人を頭として、雲霞の兵をたなびかせて、都に上す。泰時を前に据ゑて言ふやう、 「おのれをこの度都に参らする事は、思ふところ多し。本意の如く清き死をすべし。人に後ろを見えなんには、親の顔、また見るべからず。今を限りと思へ。賎しけれども、義時、君の御ために後ろめたき心やはある。されば、横ざまの死をせん事はあるべからず。心を猛く思へ。おのれうち勝つものならば、再びこの足柄・箱根山は越ゆべし」など、泣く泣く言ひ聞かす。「まことにしかなり。また親の顔拝む事もいと危うし」と思ひて、泰時も鎧の袖を絞る。肩身に今や限りに哀れに心細げなり。
東国でも、大騒ぎでございました。「なるべきして身を失する時であったのであろう」と思う者もあれば、「討手が攻めて来ても、はかなく屍を晒すものではない、たとえ敵が公であっても、身に覚えのないことならば、我が身の宿世([前世からの因縁])と思う外ない」と思って、北条義時(鎌倉幕府第二代執権)は弟の時房(北条時房)と嫡男泰時(泰時)と申す二人を先頭に、雲霞の如くの兵たちを引き連れて、都に上らせたのでございます。義時は泰時を御前にすわらせて申すには、「お前をこの度都に上せるにあたり、申しておくことが多くある。本意に従って清く死ぬべきぞ。人に背中を見せることあれば、親の顔を、再び見ることはないと思え。今を限りと戦え。身分は賎しくとも、わし義時も本当のところ、お前を上らせたくはないのだ。だから、せめて無様な死に様はするな。心を強く持て。己に打ち勝つことができたなら、再びこの足柄山(神奈川・静岡県境にある足柄峠を中心とする山地)・箱根山(神奈川・静岡両県にまたがる火山)を越えることができよう」などと、泣く泣く言い聞かせたのでございます。「もっともなことだ。再び親の顔を拝むことも叶わぬかも知れない」と思って、泰時も鎧の袖を絞りました。今を限りと思えば悲しくて心細く思われたのでございましょう。
(続く)