また南都への状にいはく、「園城寺牒す、興福寺の衙。事に合力をいたして、当寺の破滅を助けられんと請ふ状。右仏法の殊勝なることは、王法を守らんがため、王法また長久なること、すなはち仏法による。ここに入道前の太上大臣平の朝臣清盛公、法名浄海、欲しいままに国威を秘かにし、朝政を乱り、内につけ外につけ、恨みをなし、嘆きをなす間、今月十五日の夜、一院第二の皇子不慮の難を逃れんがために、にはかに入寺せしめ給ふ。ここに院宣と号して出だし奉るべき旨、しきりに責めありと言へども、衆徒一向惜しみ奉て、出だし奉るに与はず。よつてかの禅門、武士を当寺へ入れんとす。仏法と言ひ、王法と言ひ、一時にまさに破滅せんとす。昔唐の会昌天子、軍兵をもつて仏法を滅ぼさしめし時、清涼山の衆、合戦をいたして、これを防ぐ。王権なほかくのごとし。いかにいはんや謀反八逆の輩においてをや。誰の人か強請すべきぞや。なかんづく南京は例なくして、罪なき長者を配流せらる。この時にあらずんば、いづれの日か会稽を遂げん。願はくは衆徒、内には仏法の破滅を助け、外には悪逆の判類を退けば、同心のいたり、本懐に足んぬべし。衆徒の詮議かくのごとく、よつて牒奏件のごとし。治承四年五月十八日、大衆ら」とぞ書いたりける。
また南都([奈良])への状には、「園城寺([三井寺])からの知らせを、興福寺の寺務所へ。ここに力を合わせて、当寺(三井寺)の破滅を助け申す状。仏法が優れているのは、王法([国王の政治])を守っているということです、王法が末長く続くのは、つまり仏法のおかげなのです。入道前太上大臣平朝臣清盛公(平清盛)、法名浄海は、欲するままに国威を意のままに、朝政([朝廷で天子が行う政治])を乱し、内裏の内の者も外の者も、これを恨み、嘆き悲しんで、今月十五日の夜に、一院(後白河院)第二皇子(第三皇子高倉宮。以仁王)は不慮の難を逃れるために、急ぎ三井寺に入られました。清盛は院宣と称して高倉宮を三井寺から出すように、何度も催促しましたが、衆徒は三井寺から出すのを惜しんで、かくまっております。禅門(清盛)は、武士を当寺に入れようとしています。仏法も、王法も、今まさに破滅しようとしているのです。昔唐の会昌天子([唐の第十五代皇帝武宗のこと。会昌は武宗の御時の年号。道教を信仰し、廃仏を断行した])が、軍兵をもって仏法を滅ぼそうとした時、清涼山([中国江蘇省南京にある山。山上に清涼寺などがあるらしい])の衆は、戦って、軍兵を防ぎました。王権([国王の権力])に対しても仏法を守ったのです。ましてや謀反八逆([古代の律に定められた八つの重罪。謀反はその第一])の類に対しては申すまでもありません。高倉宮を三井寺から出せと強請するなどもってのほかです。その上南京([奈良])は例のないことでありながら、罪のない長者([一門一族の統率者]。興福寺は藤原氏の氏寺であり、長者は藤原基房)を配流にされました(「大臣流罪」)。今を除いて、会稽([仕返し])をする時はありません。願うことは南都の僧をもって、内には仏法の破滅を助け、外には悪逆([悪事])をはたらく者たちを追い返して、わたしたちに力添えしていただければ、本望の至るところです。衆徒の協議は以上の通り、よって連絡いたします。治承四年(1180)五月十八日、大衆ら」と書きました。
(続く)