ここに乗円坊の阿闍梨慶秀は、衣の下に萌黄匂ひの腹巻を着、大きなる打ち刀前垂れに差し誇し、白柄の薙刀杖につき、詮議の庭に進み出でて、「証拠をほかに引くべからず。先づ我が寺の本願、天武天皇、いまだ東宮の御時、大友の皇子に襲はれさせ給ひて、吉野の奥を出でさせ給ひて、大和の国宇陀の郡を過ぎさせ給ふには、その勢わづかに十七騎、されども伊賀伊勢にうち越え、美濃尾張の軍兵をもつて、大友の皇子を亡ぼして、終に位に就かせ給ひき。窮鳥懐に入る。人倫これを憐れむと言ふ本文あり。自余は知らず、慶秀が門徒においては、今夜六波羅に押し寄せて討ち死にせよや」とぞ詮議しける。円満院の大輔源覚進み出でて、「詮議はし果し。ただ夜の更くるに。急げや、進め」とぞ申しける。
乗円坊の阿闍梨慶秀は、衣の下に萌黄匂い([青黄色で上が色濃く次第に薄くなっているもの])の腹巻([鎧])を着て、大きな打ち刀([刃を上にする形で腰帯に差す刀])を衣服の前面に自慢げに差し、白柄の薙刀を杖について、協議の庭に進み出て、「小勢で勝つ証拠はここにあるぞ。我が寺の本願主([創立者])である、天武天皇が、まだ皇太子の時、大友皇子(天智天皇の第一皇子。弘文天皇)に襲われて(壬申の乱(672)です)、吉野の奥から出て、大和国宇陀郡(今の奈良県宇陀郡)を過ぎる頃には、その勢わずか十七騎でしたが、伊賀(今の三重県西部)伊勢(今の三重県)を越えて、美濃(今の岐阜県南部)尾張(今の愛知県西部)の軍兵を従えて、大友皇子を亡ぼして、終に帝位に就いたのだ。窮鳥が懐に入る。人はこれを憐れむと言うではないか([窮鳥懐に入れば猟師も殺さず]=[追いつめられて逃げ場を失った者が救いを求めてくれば、見殺しにはできない])。他の者たちは知らないが、慶秀の門徒([宗門を同じくする寺院の僧侶])ならば、今夜六波羅に押し寄せて討ち死にしようぞ」と言い放ちました。円満院([元は三井寺の本坊で、今は移転して滋賀県大津市にある寺院])の大輔源覚が進み出て、「協議は終わった。夜が更けているうちに攻めよう。急げ、進め」と言いました。
(続く)