一日戦ひ暮らし夜に入りければ、平家の船は沖に浮かび、源氏は陸に打ち上がつて、牟礼高松の中なる野山に、陣をぞ取つたりける。源氏の兵どもは、この三日が間は寝ざりけり。一昨日津の国渡辺、福島を出づるとて、大風大波に揺られて、まどろまず、昨日阿波の国勝浦に着いて戦し、夜もすがら中山越え、今日また一日戦ひ暮らしたりければ、人も馬も皆疲れ果てて、あるひは兜を枕にし、あるひは鎧の袖、箙などを枕として、前後も知らずぞ伏しにける。されどもその中に、判官と伊勢の三郎は寝ざりけり。判官は高き所に打ち上がつて、敵や寄すと遠見し給ふ。伊勢の三郎は、窪き所に隠れ居て、敵寄せば、先づ馬の太腹射んとて待ち掛けたり。平家の方には、能登殿を大将軍として、その夜夜討ちにせんと、支度せられたりけれども、越中の次郎兵衛と、江見の次郎が、先陣を争ふほどに、その夜もむなしく明けにけり。寄せたりせば、源氏なじかは堪るべき、寄せざりけるこそ、責めての運の極めなれ。
源平は一日戦い夜になると、平家の船は沖に浮かび、源氏は陸に上がって、牟礼(今の香川県高松市牟礼町)高松の野山に、陣を取りました。源氏の兵たちは、この三日の間寝ていませんでした。一昨日摂津国の渡辺(渡辺津=今の大阪市中央区の天満橋から天神橋あたり)、福島(今の大阪市福島区)を出てからというもの、大風大波に揺られて、うとうとすることもできず、昨日は阿波国の勝浦(今の香川県小豆島市らしい)に着いて戦をし、夜通し中山(大坂峠。今の香川県東かがわ市)を越えて、今日また一日戦ったので、人も馬も皆疲れ果てて、ある者は兜を枕にし、ある者は鎧の袖、箙([矢を入れる武具])などを枕にして、前後不覚となって眠りました。けれどもその中で、判官(源義経)と伊勢三郎(伊勢義盛)だけは眠りませんでした。判官は高い所に上がって、敵が攻めて来ないか遠見していました。伊勢三郎(義盛)は、窪地に隠れて、敵が寄せたなら、先ず馬の太腹([腹のふくらんでたれた部分])を射ようと待ち構えていました。平家方では、能登殿(平教経)を大将軍として、その夜源氏を夜討ちにしようと、準備していましたが越中次郎兵衛(平盛嗣)と、江見次郎(江見盛方)が、先陣を争っているうちに、その夜がむなしく明けてしまったのでした。もし攻めていれば、源氏はどうして防ぐことができたでしょう、攻めなかったことこそ、運の尽きの極めでした。
(続く)