足利がその日の装束には、朽葉の綾の直垂に、赤革威の鎧着て、高角う打つたる兜の緒を締め、黄金作りの太刀を履き、二十四差いたる切斑の矢負ひ、重籐の弓持ちて、連銭葦毛なる馬に、柏木に耳蝉打つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。鐙踏ん張り立ち上がり、大音声を上げて、「昔朝敵将門を亡ぼして、勧賞蒙つて、名を後代に上げたりし俵藤太秀郷に十代の後胤、下野の国の住人、足利の太郎俊綱が子、又太郎忠綱、生年十七歳に罷りなる。かやうに無官無位なるものの、宮に向かひ参らせて弓を引き矢を放つことは天の恐れ少なからず候へども、ただし弓も矢も、冥加のほども平家の御上にこそ留まり候はめ。三位入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄り合へや見参せん」とて、平等院の門の内へ、攻め入り攻め入り戦ひけり。
足利(忠綱)のその日の装束は、朽葉色([赤みを帯びた黄色])の直垂に、赤革威の鎧を着て、高角([角の先端を開かずに高くとがらせた鎧])を付けた兜の緒を締め、黄金作り([金めっきや金銅などで装飾したもの])の太刀を身に付け、二十四本差した切斑([鷲の尾羽で、白と黒のまだらがあるもの])の矢を負い、重籐([弓の束を黒漆塗りにし、その上を籐で強く巻いたもの])の弓を持って、連銭葦毛([葦毛に灰色の丸い斑点のまじっているもの])の馬に、柏の木に耳蝉([昆虫の一。カメムシの一種])の飾りを付けた金覆輪([金または金色の金属を用いて飾ったもの])の鞍を置いて乗っていました。鐙を踏ん張って立ち上がって、大声を張り上げて、「昔朝敵将門(平将門)を亡ぼして、勧賞([褒美])を与えられ、名を後世に残した俵藤太秀郷(藤原秀郷)の十代孫、下野国の住人、足利太郎俊綱(足利俊綱)の子、又太郎忠綱、生年十七歳だ。無官無位であり、宮(高倉宮。後白河院の第三皇子以仁王)に弓を引き矢を放つことは恐れ多いことではあるが、弓も矢も、冥加([神仏の加護・恩恵])も平家の身の上を思ってのことだ。三位入道殿(藤原頼政)の味方で、我と思う者は、近く寄ってわたしを見てみよ」と言って、平等院の門の中へ、攻め入って戦いました。
(続く)