これらは皆伊勢の国の住人なり。黒田の後平四郎、日野の十郎、乙部の弥七と言ふ者なり。中にも日野の十郎は古兵にてありければ、弓の筈、岩の間に捩ぢ立てて、かき上がり、二人の者どもを引き上げて、助けけるとぞ聞こえし。大勢皆渡つて、平等院の門の内へ、攻め入り攻め入り戦ひけり。この紛れに宮をば南都へ先立たせ参らせ、三位入道の一類、渡辺党、三井寺の大衆、残り留まつて防ぎ遣いけり。源三位入道は、七十に余つて戦して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心静かに自害せんとて、平等院の門の内へ引き退くところに、敵襲ひかかれば、次男源大夫の判官兼綱は、紺地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て、白月毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗り給ひたりけるが、父を延ばさんがために、返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ。上総の太郎判官が射ける矢に、源大夫の判官、内兜を射させてひるむところに、上総の守が童、次郎丸と言ふ大力の剛の者、萌黄匂ひの鎧着、三枚兜の緒を締め、打ち物の鞘を外いて、源大夫の判官に押し並べて、むずと組んでどうど落つ。
三人は皆伊勢国の住人でした。黒田後平四郎、日野十郎、乙部弥七という者でした。中でも日野十郎は古兵([実戦の経験を多く積んだ老練な武士])でしたので、弓の筈([端])を、岩の間に引っ掛けて、陸に上がり、二人の者たちを引き上げて、助けたということです。平家方は大勢皆川を渡って、平等院の門の中へ、攻め入って戦いました。この間に宮(高倉宮。後白河院の第三皇子以仁王)を南都([奈良])に逃がそうと、三位入道(源頼政)の一族、渡辺党(摂津国の渡辺津、今の大阪市中央区を拠点とした武士集団)、三井寺(今の滋賀県大津市にある寺院)の大衆([僧])たちは、平等院に留まって防いでいました。源三位入道(頼政)は、七十歳を越えての戦でしたので、弓手([左手])の膝口([膝頭])を射られて、痛手を負ったので、心静かに自害しようと、平等院の門の中に引き退こうとしましたが、敵が襲いかかったので、頼政の次男源大夫判官兼綱(源兼綱)が、紺地の錦の直垂に、唐綾威([唐綾を細く畳み、芯に麻を入れて威した鎧])の鎧を着て、白月毛([白い葦毛])の馬に、金覆輪([金または金色の金属で飾り付けたもの])の鞍を置いて乗っていましたが、父を逃がすために、何度も戻って防ぎ戦いました。上総太郎判官(藤原忠綱)が射た矢に、兼綱は、内兜([兜の額の部分])を射られてひるんだところに、忠綱の召し使う、次郎丸という大力の強い者が、萌黄匂い([青と黄の中間色で上が濃く次第に薄くしたもの])の鎧を着て、三枚兜([錏が三枚の兜])の緒を締めて、太刀の鞘を外して、兼綱に相向かって、組んで馬から落としました。
(続く)