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「平家物語」宮御最後(その3)

これらは皆伊勢の国の住人なり。黒田の後平ごへい四郎しらう、日野の十郎じふらふ乙部おとべの弥七と言ふ者なり。中にも日野の十郎は古兵ふるつはものにてありければ、弓のはずいははざまぢ立てて、かき上がり、二人ににんの者どもを引き上げて、助けけるとぞ聞こえし。大勢おほ>ぜい皆渡つて、平等院びやうどうゐんの門の内へ、攻め入り攻め入り戦ひけり。この紛れに宮をば南都へ先立たせまゐらせ、三入道にふだう一類いちるゐ、渡辺たう三井寺みゐでら大衆だいしゆ、残り留まつて防ぎ遣いけり。げん三位ざんみ入道は、七じふに余つていくさして、弓手ゆんでの膝口を射させ、痛手なれば、心しづかに自害せんとて、平等院の門の内へ引き退くところに、かたき襲ひかかれば、次男源大夫の判官はうぐわん兼綱かねつなは、紺の錦の直垂ひたたれ唐綾威からあやをどしよろひ着て、しら月毛なるむまに、金覆輪きんぷくりんの鞍置いて乗り給ひたりけるが、父を延ばさんがために、かへし合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ。上総かずさ太郎たらう判官が射ける矢に、源大夫の判官、内兜を射させてひるむところに、上総のかみわらは、次郎丸と言ふ大力だいぢからかうの者、萌黄もよぎ匂ひの鎧着、三枚兜のを締め、打ち物の鞘をはづいて、源大夫の判官に押し並べて、むずと組んでどうど落つ。




三人は皆伊勢国の住人でした。黒田後平四郎、日野十郎、乙部弥七という者でした。中でも日野十郎は古兵([実戦の経験を多く積んだ老練な武士])でしたので、弓の筈([端])を、岩の間に引っ掛けて、陸に上がり、二人の者たちを引き上げて、助けたということです。平家方は大勢皆川を渡って、平等院の門の中へ、攻め入って戦いました。この間に宮(高倉宮。後白河院の第三皇子以仁王もちひとわう)を南都([奈良])に逃がそうと、三位入道(源頼政よりまさ)の一族、渡辺党(摂津国の渡辺津、今の大阪市中央区を拠点とした武士集団)、三井寺(今の滋賀県大津市にある寺院)の大衆([僧])たちは、平等院に留まって防いでいました。源三位入道(頼政)は、七十歳を越えての戦でしたので、弓手([左手])の膝口([膝頭])を射られて、痛手を負ったので、心静かに自害しようと、平等院の門の中に引き退こうとしましたが、敵が襲いかかったので、頼政の次男源大夫判官兼綱(源兼綱)が、紺地の錦の直垂に、唐綾威([唐綾を細く畳み、芯に麻を入れて威した鎧])の鎧を着て、白月毛([白い葦毛])の馬に、金覆輪([金または金色の金属で飾り付けたもの])の鞍を置いて乗っていましたが、父を逃がすために、何度も戻って防ぎ戦いました。上総太郎判官(藤原忠綱ただつな)が射た矢に、兼綱は、内兜([兜の額の部分])を射られてひるんだところに、忠綱の召し使う、次郎丸という大力の強い者が、萌黄匂い([青と黄の中間色で上が濃く次第に薄くしたもの])の鎧を着て、三枚兜([しころが三枚の兜])の緒を締めて、太刀の鞘を外して、兼綱に相向かって、組んで馬から落としました。


続く


by santalab | 2013-11-07 06:58 | 平家物語

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