源大夫の判官は、大力にておはしければ、次郎丸を捕つて抑へて首を掻き、立ち上がらんとするところに平家の兵ども、十四五騎落ち重なつて、終に兼綱を討ちてげり。伊豆の守仲綱も散々に戦ひ、痛手あまた負うて、平等院の釣殿にて自害してげり。その首をば下河辺の藤三郎清親捕つて、大床の下へぞ投げ入れたる。六条の蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光も、散々に戦ひ、一所で討ち死にしてげり。この仲家と申すは、故帯刀先生義賢が嫡子なり。しかるを父討たれて後、孤児にてありしを、三位入道養子にして、不便にし給ひしかば、日頃の契約を違へじとや、一所で死ににけるこそ無残なれ。三位入道、渡辺の長七唱を召して、「我が首討て」とのたまへば、主の生け首討たんずることの悲しさに、「仕とも存じ候はず。御自害候はば、その後こそ給はり候はめ」と申しければ、げにもとや思はれけん、西に向かひ手を合はせ、高声に十念唱へ給ひて、最期の言葉ぞあはれなる。
源大夫判官(源兼綱。頼政の次男)は、大力でしたので、次郎丸を捕って抑え首を掻き、立ち上がろうとするところに平家の兵たちが、十四五騎落ち重なって、終に兼綱を討ちました。伊豆守仲綱(源仲綱。頼政<の嫡男)も散々に戦い、痛手を数多く負って、平等院の釣殿([寝殿造りの東西の対から出た廊の南端にある殿])で自害しました。仲綱の首は下河辺藤三郎清親(下河辺清親)が捕って、大床([神社の簀子縁])の下へ投げ入れました。六条蔵人仲家(源仲家)、その子の蔵人太郎仲光(源仲光)も、散々に戦い、同じ所で討ち死にしました。この仲家は、故帯刀先生義賢(源義賢)の嫡子でした(次男が木曽義仲です)。父が討たれた後(義賢を討ったのが源義朝の嫡男義平ですが、平治の乱で父子ともに亡ぼされます)、孤児だったのを、頼政が養子にして、かわいがったので、日頃の約束を果たすために、一所に死んだのはかわいそうなことでした。頼政は、渡辺長七唱(渡辺唱)を呼んで、「わしの首を討て」と言いましたが、主人の生首を討つのは悲しくて、「それはできません。自害された後は、お任せくださいませ」と申したので、頼政はそうだなと思って、西に向かい手を合わせて、大声で十念([南無阿弥陀仏と十回唱えること])を唱えましたが、最期の言葉と思うとあわれに思いました。
(続く)