一世の源氏、無位より三位することは、嵯峨の皇帝の御子、陽成院の大納言定の卿のほかは、これ初めとぞ承る。花園の左大臣有仁公の御事なり。されば今度の高倉の宮の御謀反によつて、調伏の法承つて行はれける高僧たちに、勧賞ども行はる。前の右大将宗盛の卿の子息、侍従清宗三位に叙して、三位の侍従とぞ申しける。今年十二歳、父の卿はこの齢では、わづか兵衛の佐までこそいたられしか。たちまちに上達部に上がり給ふこと、一の人の公達のほかは、これ初めとぞ承る。さるほどに源の以仁並びに三位入道頼政父子、追討の賞とぞ聞き書きにはありける。まさしい太上法皇の皇子を、射奉るだにあるに、あまつさへ凡人に成し奉るぞ浅ましき。源の以仁とは、この高倉の宮の御事なり。
一世の源氏(一世、つまり皇子、皇女に源姓を与えて臣籍降下すること)、無位より三位にしたのは、陽成院大納言定(源定。嵯峨天皇の子)のほかは、これが初めてということでした。花園左大臣有仁公(源有仁)のことです。今度の高倉宮(後白河院の第三皇子以仁王)の謀反のために、調伏([祈祷によって悪魔、怨敵を下すこと])の法([祈祷])を行った高僧たちに、勧賞([褒美などを与えて励ますこと])などが行われました。前右大将宗盛卿(平宗盛。清盛の三男)の子、侍従清宗(平清宗。宗盛の嫡男)を三位に就かせて、三位侍従と呼ばれました。清宗は今年十二歳で、父の卿(宗盛)はこの歳には、わずか兵衛佐に上っただけでした。たちまち上達部([三位以上の者])に上がるのは、一の人([摂政、関白、または太政大臣など第一位の者])の公達([子息])のほかは、それが初めてでした。これは源以仁(以仁王)並びに三位入道頼政父子(源頼政とその子仲綱)を、追討した勧賞と聞き書き([叙位任官の理由などを書いた文書])にありました。正しく太上法皇(現法皇)の皇子を、射ることさえ憚られることでしたが、その上に皇子を凡人にするのは嘆かわしいことでした。源以仁は、高倉宮のことでした。
(続く)