さるほどに伊勢三郎、田内左衛門さゑもん行き遭うたり。間あはひ一町ちやうばかりを隔てて、互ひに赤旗白しら旗うつ立てたり。義盛よしもり、教能のりよしが許へ使者を立てて、「かつ聞こし召されてもや候さふらふらん、鎌倉殿の御弟おとと、九郎大夫の判官殿こそ、平家追討の院宣を承うけたまはつて、西国へ向かはせ給ひて候ふ。その身内に、伊勢三郎義盛よしもりと申まうす者にて候ふが、戦いくさ合戦の料れうで候はねば、物の具をもし候はず、弓箭きうせんをも帯し候はず。大将たいしやうに申すべきことあつて、これまで罷り向かつて候ふぞ。開けて入れさせ給へ」と言ひ送つたりければ、三千余騎の兵つはものども、皆中を開けてぞ通とほしける。伊勢の三郎、田内左衛門にうち並べて言ひけるは、「かつ聞き給ひても候ふらん。鎌倉殿の御弟おとと、九郎大夫の判官殿こそ、平家追討のために、これまで向かはせ給ひて候ふが、一昨日をととひ阿波あはの国勝浦に着いて、御辺の伯父をぢ、桜庭さくらばの介すけ殿討つ捕り、昨日きのふ屋島に着いて戦し、御所内裏皆焼き払ひ、主上しゆしやうは海へ入らせ給ひぬ。
やがて伊勢三郎(伊勢義盛)は、田内左衛門(田口教能)に行き逢いました。間一町(約109m)ほど隔てて、互いに赤旗(平家の印)と白旗(源氏の印)が立っていました。義盛は、教能の許へ使者を立てて、「もうすでに聞いているかもしれませんが、鎌倉殿(源頼朝)の弟である、九郎大夫判官殿(源義経)が、平家追討の院前を受けて、西国へ向かいました。その身内で、伊勢三郎義盛と申す者ですが、戦するわけではございませんので武器も持たず、弓矢も身に付けていません。大将(教能)に申したいことがあって、ここまでやって来ました。開けて入れてください」と言伝てすると、教能の兵は中を開けて義盛を通しました。義盛が、教能と並んで言うには、「すでに聞いているかもしれません。鎌倉殿(頼朝)の弟、九郎大夫判官殿(義経)が、平家追討のために、ここまで向かいましたが、一昨日に阿波国勝浦(今の徳島県勝浦郡)に着いて、お主の伯父桜庭介殿(桜庭能遠よしとほ)を討ち捕り、昨日や屋島(今の香川県高松市)に着いて戦い、御所内裏を皆焼き払って、主上(安徳天皇)は海に入られました。
(続く)