入道相国の弟、池の中納言頼盛の卿の山荘、皇居になる。同じき四日の日、頼盛、家の賞とて正二位し給ふ。九条殿の御子、右大将良通の卿、加階越えられさせ給ひけり。摂禄の臣の御子息、凡人の次男に加階越えられさせ給ふこと、これ始めとぞ承る。入道相国やうやう思ひ直つて、法皇をば鳥羽の北殿を出だし参らせて、都へ還御成し奉られたりしが、高倉の宮の御謀反によつて、大きに憤り、また福原へ御幸成し奉り、四面に端板して、口一つ開きたる内に、三間の板屋を造つて、押し籠め奉る。守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ひける。容易う人の参り通ふべきやうもなければ、童などは、牢の御所とぞ申しける。聞くも忌ま忌ましう、浅ましかりしことどもなり。
入道相国(平清盛)の弟、池中納言頼盛卿(平頼盛)の山荘([別荘])が、皇居となりました。同じ四日の日、頼盛は、家の賞([功績をあげた者に与える褒美])として正二位になりました。九条殿(九条兼実)の子である、右大将良通卿(九条良通)は、頼盛に位を越えられました。摂禄([摂政関白])の大臣の子が、凡人の次男に位を越えられたのは、これが初めてのことでした。入道相国(平清盛)はようやく思い直して、法皇(後白河院)を鳥羽北殿(鳥羽離宮。今の京都市伏見区にあった院御所)から出して、都へ戻されましたが、高倉宮(以仁王)の謀反によって、ひどく憤慨して、また福原(今の兵庫県神戸市兵庫区)に移しました、四面を端板([羽目板])で覆って、入口一つ開いた中に、三間の板屋([質素な家屋])を造って、後白河院を押し籠めました。守護の武士には、原田大夫種直(原田種直。平重盛の養女婿)ただ一人を付けました。容易く通うことのできない場所でしたので、子どもたちは、牢の御所と呼びました。聞くことさえ憚られるほど、嘆かわしいことでした。
(続く)