これによつて乙訓の郡におはします賀茂の大明神に、この由を告げ申させ給ひて、延暦十三年十一月二十一日、長岡の京よりこの京へ遷されて、帝王は三十二代、星霜は三百八十余歳の春秋を送り向かふ。それよりこの方代々の帝、国々所々へ、多くの都を遷されしかども、かくの如きの勝地はなしと、桓武天皇殊に執し思し召して、大臣公卿、諸国の才人らに仰せて、長久なるべき相とて、 土にて八尺の人形を造り、鉄の鎧兜を着せ、同じう鉄の弓矢を持たせて、末代と言ふとも、この京を他国へ遷すことあらば、守護神と成らんと誓ひつつ、東山の嶺に、西向きに立ててぞ埋まれける。されば天下に事出でこんとては、この塚必ず鳴動す。将軍が塚とて今にあり。なかんづくこの京をば、平安城と名付けて、平ら安き都と書けり。
こうして乙訓郡(今の京都市あたり)におられる賀茂大明神(賀茂神社の祭神)に、これを告げ申して、延暦十三年(794)十一月二十一日に、長岡京(今の京都府長岡京市)からこの京(平安京)に遷して、帝王([天皇])は三十二代、星霜([年月])三百八十余年の年月を送り向かえました。それよりこの方今まで代々の天皇が、他国に、多くの都を遷しましたが、これほどの勝地([優れた土地])はないと、桓武天皇([第五十代天皇])は執着して、大臣公卿、諸国の才人たちに命じて、平安京が末永く続くようにと、土で八尺([約2.4m])の人形を造って、鉄の鎧兜を着せて、同じ鉄の弓矢を持たせて、たとえ世末であろうとも、この京を他国へ遷すことがあれば、守護神になってほしいと誓って、東山に、西向きに立てて埋めました。そして天下に騒動が起これば、この塚が決まって鳴動しました。将軍塚と呼んで今にあります(今の京都市東山区にあります)。加えてこの京を、平安城と名付けて、平穏の都と書きました。
(続く)