今一日も先に討つ手を下させ給ひたらば、大庭兄弟、畠山が一族、などか参らで候ふべき。これらだに参り候はば、伊豆駿河の勢は皆従ひ付くべかりつるものを」と、後悔すれども甲斐ぞなき。大将軍権の亮少将維盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛を召して、「汝ほどの強弓勢兵、八箇国にはいかほどあるぞ」と問ひ給へば、斎藤別当あざ笑つて、「さ候へば、君は実盛を大矢と思し召され候ふにこそ。わづか十三束をこそ仕り候へ。実盛ほど射候ふ者は、八箇国にはいくらも候ふ。大矢と申す条の者の、十五束に劣つて引くは候はず。弓の強さも、強かなる者の五六人して張り候ふ。かやうの勢兵どもが射候へば、鎧のに三両は容易う欠けず射通し候ふ。大名と申す条の者の、五百騎に劣つて持つは候はず。馬に乗つて落つる道を知らず、悪所を馳すれど馬を倒さず。戦はまた親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ候ふ。西国の軍と申すは、すべてその儀候はず。親討たれぬれば引き退き、仏事孝養し、忌み明けて寄せ、子討たれぬれば、その憂へ嘆きとて、寄せ候はず。兵糧米尽きぬれば、春は田作り、秋刈り収めて寄せ、夏は暑しと厭ひ、冬は寒しと嫌ひ候ふ。東国の戦と申すは、すべてその儀候はず。その上甲斐信濃の源氏ら、案内は知つたり、富士の裾より、搦め手にや回り候はんずらん。かやうに申せば、大将軍の御心を臆せさせ参らせんとて、申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。ただし戦は勢の多少には依り候はず。大将軍の謀によるとこそ申し伝へて候へ」と申しければ、これを聞く兵ども、皆震ひわななき合へりけり。
一日も早く討手を下しておれば、大庭兄弟(景親、景義。景親はすでに亡くなっていたが)、畠山(重忠)の一族が、参らぬことはなかったはずだ。これらが参れば、伊豆(静岡県の伊豆半島)駿河(今の静岡県の中央部)の勢も皆従い付いたことだろう」と、後悔しましたが仕方のないことでした。大将軍権亮少将維盛(平維盛)は、東国の案内者として、長井斎藤別当実盛(斎藤実盛)を呼んで、「お前ほどの強弓を引く勢兵は、関東八箇国にどれほどおるか」と訊ねると、斎藤別当はあざ笑って、「そうおっしゃられるのは、君(維盛)はわたし実盛を大矢([普通より長い矢を射ることができる者])と思われているのですか。わたしの矢はわずか十三束([こぶし十三握りの幅])に過ぎません。わたしほどの弓使いは八箇国にいくらでもおります。大矢と申す者で、十五束に劣る者はおりません。弓の強さも、大力の者を五六人して張るのでございます。そのような者が射れば、鎧三両を容易く一つ残らず射通します。大名と呼ばれる者で、五百騎に劣る兵を持つ者はおりません。馬に乗れば落ちることを知りません、悪所を駆けても倒れたりはしません。戦では親が討たれようが、子が討たれようが、死ねば乗り越えて行きます。西国の兵と申すものは、そんなことはしません。親が討たれれば引き退き、仏事を孝養([亡き親のために供養をして、ねんごろに弔うこと])し、忌([喪中])が明けてから戦に戻ります、子が討たれれば、嘆き悲しんで、戦に出て参りません。兵糧米がなくなれば、春には田を作り、秋に刈り終わってから攻めます。夏の戦を暑いといやがり、冬は寒いと言って嫌います。東国の戦と申すのは、そのようなものではありません。その上甲斐(今の山梨県)信濃(今の長野県)の源氏たちは、このあたりをよく知っております、富士の裾より、搦め手([後陣])として寄せて来るかも知れません。こう申せば、大将軍(平維盛)を怖じさせようと、申していると思われるかも知れません。そのようなつもりではありません。ただ戦は勢の多少で決まるものではありません。大将軍の采配によるものだと聞いております」と申すと、これを聞く平氏の兵たちは、皆震え恐れ合いました。
(続く)