尊慧もその人数たる上、急ぎ参勤せらるべし。閻王宣よつて屈請件の如し。承安二年十二月二十二日、閻魔の庁」とぞ書かれたる。尊慧否み申すに及ばねば、やがて領状りやうじようの請け文を奉ると思えて、夢醒めぬ。これを院主の光影房に語りたりければ、聞く人身の毛よだちけり。その後はひとへに死去の思ひをなして、口には仏名を唱へ、心に引摂の悲願を念ず。同じきに十五日の夜に入つて、また常住の仏前に参り、例の如く念誦読経す。子の刻ばかり、眠り切なるが故に、住房に帰つて打ち臥す。丑の刻ばかり、また前の如くに男二人来たつて、疾う疾うと勧むる間、尊慧参詣いたさんとすれば、衣鉢さらになし。閻王宣を辞せんとすれば、はなはだその恐れあり。この思ひをなすところに、法衣自然に身に纏つて肩に掛かり、天より黄金の鉢下る。二人の従僧、二人の童子、十人の下僧、七宝の大車、寺坊の前に現ず。尊慧よろこんで車に乗り、西北に向かつて空を駆けると思えて、ほどなく閻魔王宮に至りぬ。
尊慧もその中に入っているので、急ぎ参勤([出仕して主君にお目にかかること])せよ。閻王([閻魔大王])の命によって以上の通り屈請([法会などのために僧を招くこと])する。承安二年(1172)十二月二十二日、閻魔庁より」と書いてありました。尊慧は断ることもできず、すぐに領状([承知すること])の請け文([上司または身分の上の者の仰せに対して承諾したことを書いた文書])を渡すと思うと、夢から覚めました。これを院主([寺院の住職])である光影房に話すと、聞く者は恐れました。その後尊慧は死ぬのではないかと、口に仏名を唱え、心には引摂([人の臨終のとき、阿弥陀仏が来迎して極楽浄土に導くこと])の悲願を念じました。同じ十五日の夜になって、また常住(清澄寺)の仏前に参って、いつものように経を唱えました。子の刻(午前零時頃)ほどに、とても眠くなったので、住房([日常生活している部屋])に帰って寝ました。丑の刻(午前二時頃)ほどに、また前と同じように男二人がやって来て、急いで出かけるように促したので、尊慧は出かけることにしましたが、衣鉢([袈裟と鉢])がありませんでした。閻王の命に従わなければ、きっと罰を受けるに違いありません。尊慧があわてていると、法衣は自然と身に纏い、天からは黄金の鉢が降ってきました。二人の従僧([供をする僧])、二人の童子、十人の下僧([身分の低い僧])、七宝で飾った大車が、寺坊([寺院])の前に現れました。尊慧はよろこんで車に乗りました、車は西北に向かって空を飛ぶかと思うと、すぐに閻魔王宮に着きました。
(続く)