二月二十一日、宗盛公従一位し給ふ。やがてその日内大臣をば上表せらる。これは兵乱慎みのためとぞ聞こえし。南都北嶺の大衆、熊野金峰山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官にいたるまで、一向平家を背いて、源氏に心を通はしけり。四海に宣旨をなし下し、諸国へ院宣を遣はせども、院宣宣旨をも、皆平家の下知とのみ心得て、従ひ付く者なかりけり。
二月二十一日(1183)に、宗盛公(平宗盛。清盛の三男)は、従一位を賜りました。そしてその日に内大臣を上表([辞表を提出すること])しました。これは兵乱([戦乱])の斎戒([飲食や行動を慎み、心身を清めること])のためだと言われました。南都([平城京])北嶺([比叡山])の大衆([僧たち、衆徒])、熊野([熊野三山])金峰山(今の山梨県と長野県境にある山。金峰山神社があるらしい)の僧徒、伊勢大神宮の祭主([伊勢神宮の神職の長])神官にいたるまで、すべての者たちは平家を背いて、源氏に付きました。天下に宣旨([天皇の命を伝える文書])を下し、院宣([上皇または法皇の命令を受けて出す文書])を遣わせましたが、院宣宣旨も、すべて平家の命令だと思って、従う者はいませんでした。
(続く)