寿永三年三月上旬に、木曽の冠者義仲、兵衛佐頼朝、不快の事ありと聞こえけり。さるほどに鎌倉の前の兵衛佐頼朝、木曽追討のためにとて、その勢十万余騎で、信濃の国へ発向す。木曽はその頃依田の城にありけるが、その勢三千余騎で、城を出でて、信濃と越後の境なる熊坂山に陣を取る。兵衛佐も同じき国の内、善光寺にこそ着き給へ。木曽、乳母子の今井の四郎兼平を使者にて、兵衛佐の元へ遣はす。「そもそも御辺は東八箇国をうち従へて、東海道より攻め上り、平家を追ひ落さんとはし給ふなり。義仲も東山北陸両道をうち従へて、北陸道より攻め上り、いま一日も先に平家を滅ぼさんとすることでこそあるに、いかなる仔細あつてか、御辺と義仲、仲を違うて、平家に笑はれんとは思ふべき。ただし叔父の十郎蔵人殿こそ、御辺を恨み奉ることありとて、義仲が元へおはしつるを、義仲さへ、すげなう相しらひもてなし申さんこと、いかんぞや候へば、これまではうち連れ申したり。義仲においてはまつたく意趣思ひ奉らず」とのたまひ遣はされたりければ、兵衛佐の返事に、「今こそ左様にのたまへども、まさしう頼朝討つべき由の謀反の企てありと、告げ知らする者あり。ただしそれにはよるべからず」とて、土肥、梶原を先として、数万騎の軍兵を差し向けらるる由聞こえしかば、木曽真実意趣なき由を表はさんがために、嫡子に清水の冠者義重とて、生年十一歳になりける小冠者に、海野、望月、諏方、藤沢など言ふ、一人当千の 兵を相添へて、兵衛佐の元へ遣はす。兵衛佐、「この上はまことに意趣なかりけり。頼朝いまだ成人の子を持たず。よしよし、さらば子にし申さん」とて、清水の冠者を相具して、鎌倉へこそ帰られけれ。
寿永三年(1184)三月上旬に、木曽冠者([官職がないこと])義仲(木曽義仲、源義仲)と、兵衛佐頼朝(源頼朝、[兵衛佐]=[兵衛府の次官])の間に、いさかいがあると聞こえてきました。やがて鎌倉(今の神奈川県鎌倉市)の前の兵衛佐頼朝は、木曽義仲を討伐するために、勢力十万騎余りを、信濃国(今の長野県)に差し向けました。木曽義仲はその頃依田城(今の長野県上田市にあった)にいましたが、勢力三千騎余で、城を出て、信濃と越後の境にある熊坂山(今の長野県上水内郡信濃町熊坂あたりらしい)に陣を取りました。頼朝も同じ信濃国、善光寺(今の長野県長野市にあります)に着きました。木曽義仲は、義仲の乳母の子である今井四郎兼平(今井兼平)を使者に立てて、頼朝の元に遣わせました。今井兼平は、「そもそもあなたは東八箇国を従えて、東海道より都に攻め上り、平家を打ち落とそうとしているのではないですか。義仲も東山北陸両道の兵を従えて、北陸道より京へ攻め上り、一日でも早く平家を滅ぼそうとしているところですが、いったいどういう訳があって、あなたとわたし義仲が、仲違いをしなければならないのでしょうか、平家に笑われるとは思わないのですか。ただし叔父の十郎蔵人殿(源行家)が、あなたに恨みを持っているとのことで、義仲の元におりますが、義仲までもが、そっけなくするのはいかがなものかと思って、ならばどうすればよいものかと、今まで一緒にいたのです。義仲があなたに恨みを持っているということはありません」と遣わされた訳を話せば、頼朝の返事は、「今だからそのようなことを言うのだろうが、確かに頼朝を討とうとする謀反の企てがあると、告げ知らせる者があるのだ。だから義仲の話は信用できない」と言って、土肥(土肥実平?)、梶原(梶原景時)を先鋒として、数万騎の軍兵を差し向けると言ったので、木曽義仲は本当に恨みがないことを表すために、義仲の嫡子([長男])清水冠者義重(源義高)、十一歳になった元服したばかりの若者に、海野(海野幸氏)、望月(望月重隆)、諏方、藤沢などの、一人当千([一人で多勢にあたるほどの力があること])の兵を供につけて、頼朝の元に遣わせました。頼朝は、「嫡子を遣したからには、本当に恨みはないであろう。わしにはまだ成人した子がいない。そうだ、ならば我が子にしよう」と言って、清水冠者を連れて、鎌倉へ帰っていきました。
(続く)