この覚明と申すは、本は儒家の者なり。蔵人道広とて、勧学院にぞ候ひける。出家の後は、最乗房信教とぞ名乗りける。常は南都へも通ひけり。一年高倉の宮、 園城寺へ入御の時、山、奈良へ牒状を遣はされけるに、南都の大衆いかが思ひけん、その返牒をば、この信教にぞ書かせける。「そもそも清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥」とぞ書いたりける。入道大きに怒つて、「何でふその信教めが、浄海ほどの者を、平氏の糠糟、武家の塵芥と書くべきやうこそ奇怪なれ。急ぎその法師からめ捕つて、死罪に行へ」とのたまふ間、これによつて南都には堪へずして、北国へ落ち下り、木曽殿の手書きして、大夫房覚明と名乗る。その願書にいはく、「帰命頂礼、八幡大菩薩は、日域廷庭の本主、累世明君の曩祖たり。宝祚を守らんがため、蒼生を利せんがために、三身の金容を顕し、三所の権扉を押し開き給へり。ここに頻りの年よりこの方、平相国と言ふ者あつて、四海を管領し、万民を悩乱せしむ。これすでに仏法の怨、王法の敵なり。義仲いやしくも弓馬の家に生まれて、わづかに箕裘の塵を継ぐ。かの暴悪を案ずるに、思慮を顧みるに能はず。運を天道に任せて、身を国家に投ぐ。
覚明というのは、もとは儒家([儒者の家])の者でした。蔵人道広と言って、勧学院([藤原冬嗣が創建した、有力氏族の学生のための寄宿舎])にいました。出家後は、最乗房信教と名乗りました。南都([奈良])にも通っていました。一昨年高倉宮(後白河院の第三皇子以仁王)が、園城寺(今の滋賀県大津市にある三井寺)へ入った時、山(延暦寺)は、奈良へ牒状([順番に回して用件を伝える書状])を送りましたが、南都の大衆([僧])はどう思ったのか、その返事を、信教に書かせました。「そもそも清盛(平清盛)は、平氏の糟糠([酒かすと米ぬか])、武家の塵芥([塵とごみ])のようなものだ」と書きました。入道(清盛)はたいそう怒って、「なんということだ信教という奴が、浄海(清盛の法名)ほどの者を、平氏の糠糟([米ぬかと酒かす]=[糟糠])、武家の塵芥と書くとは許せないことだ。急ぎその法師(信教)を捕らえて、死罪にせよ」と言ったので、信教は南都に留まることができずに、北国に逃げて、木曽殿(木曽義仲)の手書き([書記])として、大夫房覚明と名乗りました。願書([神仏に対する願いを記した文書])には、「帰命頂礼([仏を礼拝するときに唱える言葉])、八幡大菩薩([八幡大明神の本地])は、日本朝廷の本主([正式の所有者])であり、累世明君([賢明な君主])の曩祖([祖先])であられます。宝祚([天子の位])を守るため、蒼生([人民])に利益を与えるために、三身([大乗仏教で説かれる三種の仏身。法身=僧体としての仏・応身=世の人を救うため、それぞれの素質に応じてこの世に姿を現した仏・報身=菩薩であったときに願を立て、修行を積んだ報いとして得た仏身])の金容([金色に輝く仏像の容姿 ])を現し、三所(ここでは、八幡宮に祀られた応神天皇=誉田別命・応神天皇の母神功皇后=息長帯姫命・比売神=女神であるがその正体は、卑弥呼や天照大神など諸説あるらしい)の権扉([仏が仮に姿を現すとされる、権現堂の扉])を押し開かれます。ここ頻りの年([ここ数年])は、平相国(清盛)という者がいて、四海([国内])を管領([支配すること])し、万民を悩み苦しませました。これは仏法の悲しみであり、王法([政治])の敵なのです。義仲は正統な弓馬の家([武家])に生まれて、かろうじて箕裘([父祖の家業])を継ぎました。平家の暴悪を思うと、思い悩むまでもないことです。運を天に任せて、身を国家のために捧げます。
(続く)