上総守忠清、飛騨守景家は、一昨年入道相国薨ぜられし時、二人ともに出家してありけるが、今度北国にて、子ども皆討たれぬと聞いて、その思ひの積もりにや、終に嘆き死ににぞ死ににける。これを始めて、親は子に遅れ、女は夫に別れて、嘆き悲しむこと限りなし。およそ京中には、家々に門戸を閉ぢて、朝夕鐘打ち鳴らし、声々に念仏申し、喚き叫ぶことおびたたし。また遠国近国もかくのごとし。六月一日の日、祭主神祇の権の大副大中臣の親俊を、殿上の下口へ召されて、今度兵革静まらば、伊勢大神宮へ行幸あるべき由仰せ下さる。大神宮は昔高天原より天下らせ給ひて、垂仁天皇の御宇、二十五年三月に、大和の国笠縫の里より、伊勢の国度会の郡五十鈴の川上、下津石根に大宮柱を太敷き立てて、崇め染め奉しよりこの方、日本六十余州、三千七百五十四社の、大小の神祇冥堂の中には無双なり。されども世々の帝、終に臨幸はなかりしに、奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛の少将兼太宰の少弐、藤原の広嗣と言ふ人ありけり。
上総守忠清(平忠清=藤原忠清=伊藤五)、飛騨守景家(平景家=藤原景家=伊藤六)は、一昨年(1181)に入道相国(平清盛)が亡くなった時に、二人とも出家していましたが、今度の戦で北国で、子どもが皆討たれたと聞いて、悲しみが積もったのでしょうか、嘆きながら死んでしまいました。この例にしかず、親は子に先立たれ、妻は夫と死に別れて、嘆き悲しむこと限りありませんでした。京中の、家々は門戸を閉ざし、朝夕に鐘を鳴らし、声々に念仏を唱え、泣き叫ぶことなはだしいものでした。遠国近国もまったく同じでした。六月一日に、祭主神祇権大副大中臣親俊を、殿上の裏口に呼んで、今度の戦乱が治まらなければ、伊勢大神宮へ行幸すべきと命じました(この時の天皇は幼少の安徳天皇でしたので、伊勢大神宮へ行幸し、神にすがろうとしたのは、平家の者たちだったのでしょう)。伊勢大神宮は昔天より下った天照大神(天照大神は天皇の祖、つまり皇祖神とされています)を、垂仁天皇の時代、二十五年三月に、大和国笠縫里([笠縫邑]=[垂仁天皇の父、崇神天皇が宮中に奉祀していた天照大神を移し、皇女豊鍬入姫命に託して祀らせた場所])から、伊勢国度会郡(今の三重県伊勢市あたり)の五十鈴川の川上の、地中に大宮柱([宮柱]=[宮殿や神殿の柱])を立て宮を作り、崇め奉ってからというもの、日本六十州余り、三千七百五十四社の中の、大小の神社仏閣の中で並ぶものはありませんでした。けれども代々の天皇が、伊勢大神宮に参ることはありませんでしたが、奈良帝(聖武天皇)の時代に、左大臣不比等(藤原不比等)の孫で、参議式部卿宇合(藤原宇合)の子である、右近衛少将兼太宰少弐藤原広嗣という者がいました。
(続く)