その状にいはく、「義仲熟々平家の悪逆を見るに、保元平治よりこの方、長く人臣の礼を失ふ。しかりと言へども、貴賎手を着かね、緇素足を戴く。恣いままに帝位を進退し、飽くまで国郡を虜領す。道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪無罪を言はず、卿相侍臣を損亡す。その資財を奪ひ取つて、ことごとく郎従に与へ、かの庄園を没取して、みだりがはしく子孫に省く。なかんづく去んぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮に移し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る。衆庶物言はず、道路目をもつてす。しかのみならず同じき四年五月、二の宮の朱閣を囲み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。ここに帝子非分の害を逃れんがために、密かに園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を賜るによつて、鞭を上げんと発するところに、怨敵巷に満ちて、予参道を失ふ。近境の源氏なほ参候せず。いはんや遠境においてをや。しかるに園城は分限なきによつて、南都へ赴かしめ給ふ間、宇治橋にして合戦す。
その状には、「わたし義仲(木曽義仲)がよくよく平家の悪逆([人道に外れた、ひどい悪事・悪行])を見ますと、保元平治(保元の乱(1156)と平治の乱(1159))よりこの方、永く人臣([臣下])としての礼儀を失っていると思われます。そうは言えども、貴賎の者たちは平家に手を着き、緇素([僧と俗人])は平家の足元にひれ伏しています。思うがままに帝位を下し就かせて、余すところなく国郡を虜領([ある地域や財物を軍事的に制圧し、統治下に置くこと])しています。道理と非理([非道])もわきまえず、権門([官位が高く権力・勢力のある家])勢家([権勢のある家])の者たちを追捕([ 賊や罪人などを追いかけて捕らえること])し、罪があろうとなかろうと、卿相([公卿])侍臣([天皇・法皇に近侍の者])たちの命を失いました。その者たちの資財を奪い取って、すべて郎従([家来])たちに与え、庄園を没取([取り上げること])して、乱暴に子孫に分け与えました。その上去る治承三年(1179)十一月には、法皇(後白河院)を城南の離宮(鳥羽殿。京都市伏見区鳥羽にあった白河・鳥羽院の離宮)に押し籠め、博陸([関白]。松殿基房=藤原基房)を海西の絶域([遠く離れた土地])に配流(松殿基房は大宰府に配流が決まったが、出家して備前国へ変更された)しました。衆庶([庶民])は口を閉ざし、路次では目配せするばかりです。それのみならず同じ治承四年(1181)五月には、二の宮(後白河院の第二皇子以仁王)の朱閣(御所)を取り囲み、九重([宮中])の垢塵さえ驚かせたのです。帝子(以仁王)は非分([道理にはずれたこと])の害から逃れるために、密かに園城寺(滋賀県大津市にある三井寺)に入られましたが、わたし義仲は前もって令旨([皇太子・三后・親王・法親王・女院の命令を書き記した文書 ])を賜っていたので、急ぎ鞭打って向かおうとしましたが、怨敵([敵]。平家)が市中に満ち溢れて、向かうことができませんでした。近境の源氏さえ向かうことができなかったのです。どうして遠境のわたしが参ることができたでしょうか。そして園城寺には平家に対峙する力がなく、以仁王は南都(奈良)へ向かわれる途中、宇治橋(京都府宇治市の宇治川に架かる橋。宇治平等院のすぐ近く)で合戦することになったのです。
(続く)