越中の次郎兵衛、太刀脇挟み、摂政殿の御留まりあるを押し止め参らせんと、しきりに進みけれども、人々に制せられて、力及ばで止まりぬ。中にも小松の三位の中将惟盛の卿は、日頃より思ひ設け給へることなれども、さしあたつては悲しかりけり。この北の方と申すは、故中御門の新大納言成親の卿の娘、父にも母にも遅れ給ひて、孤児にておはせしかども、桃顔露にほころび、紅粉眼に媚びをなし、柳髪風に乱るる装ひ、また人あるべしとも見え給はず。六代御前とて、生年十になり給ふ若君、その妹八歳の姫君おはしけり。
越中次郎兵衛(平盛嗣)は、太刀をしっかりと抱えて、摂政殿(近衛基通、平清盛の子である完子の夫で安徳天皇の摂政)がいたので敵(木曽義仲)を押しとどめようと、打って出ようとしましたが、他の者たちに制せられて、仕方なくとどまりました。その中にあって小松三位中将惟盛卿(平惟盛、清盛の嫡孫)は、日頃よりもしやと心積もりしていたこととはいえ、今となっては悲しいことでした。惟盛の北の方(妻)は、故中御門(藤原家成)の新大納言成親卿(藤原成親。家成の子)の娘(次女)、父にも母にも死に別れて、孤児でしたが、若くて美しく、紅粉([紅と白粉])は人目を引き、美しい髪が風に乱れるその姿は、並ぶ人がいるとは思えませんでした。そして六代御前(平高清)と呼ばれる、十歳になった若君と、その妹で八歳の姫君がいました。
(続く)