松風のみや通ふらん。簾絶えねやあらはなり。月影のみぞ差し入りける。明けぬれば福原の内裏に火をかけて、主上を始め参らせて、人々皆御船に召す。都を出でしほどこそなけれども、これもなごりは惜しかりけり。海女の焚く藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、渚々に寄する波の音、袖に宿借る月の影、千草に集く蟋蟀のきりぎりす、すべて目に見、耳に触るることの、一つとして哀れを催し、心を痛ましめずと言ふことなし。昨日は東関のふもとに轡を並べて、十万余騎、今日は西海の波の上に、とも綱を解いて七千余人、雲海沈々として、青天すでに暮れなんとす。孤島に夕霧隔てて、月海上に浮かべり。極浦の波を分け、塩に引かれて行く船は、半天の雲にさか上る。日数経れば、都は山川程を隔てて、雲居のよそにぞなりにける。はるばる来ぬと思へども、ただ尽きせぬものは涙なり。波の上に白き鳥の群れ居るを見給ひては、かれならん、在原の某の、隅田川にて言問ひけん、名もむつまじき都鳥かなと哀れなり。寿永二年七月二十五日に、平家都を落ち果てぬ。
ただ松風が吹くだけでした。簾もなくなっていて中がまる見えでした。そこに月光だけが差していました。夜が明けると福原の内裏に火をつけて、主上([天皇]、安徳天皇)を始めとして福原を出て、皆船に乗せました。都を出る時ほどではありませんでしたが、ここもやはり名残り惜しいものでした。海女が焚く藻の夕煙([夕方、食事の仕度などのために立つ煙])、尾上([山の高い所])の鹿が夜明け前に鳴く声、渚に寄せる波の音、涙にぬれた袖に宿る月影、千草([いろいろの種類の草])に集まって鳴くこおろぎ(「きりぎりす」は「こおろぎ」のこと)、どれもこれも見たり、聞いたりするだけで、悲しくなって、心を痛めることは言うまでもありませんでした。つい昨日は東関([逢坂の関])にくつばみ([手綱をつけるため馬の口にかませる金具、くつわ])を並べて、十万騎余り、今日は西海の波の上に、とも綱を解いて七千人余り、果てしない海原はひっそりと静まりかえり、晴れ渡った青空は暮れようとしていました。離れ島は夕霧が隔てられて、月が海上に浮かんでいました。海岸がはるか遠く波を分けて、塩に引かれて進んで行く船は、中空の雲に上っていくようでした。日が経てば、都は山と川ほども遠くなって、雲のかなたになってしまいました。はるばる来たと思っても、尽きないものは涙でした。波の上に白い鳥の群れがいるのを見て、あれでしょうか、在原某(在原業平。平安時代初期の歌人)の、隅田川にて訊ねた名に心引かれる都鳥かと思って悲しくなりました。寿永二年(1183)七月二十五日に、平家は都を落ちていきました。
在原業平の歌は、「名にしおはば いざ言問はむ みやこ鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」です。「都鳥」=「ユリカモメ」(カモメ科)のことだそうです。
(続く)