平家は筑紫に都を定め、内裏造らるべしと、公卿詮議ありしかども、都もいまだ定まらず。主上はその頃岩戸の小卿大蔵の種直が宿所にぞましましける。人々の家々は、野中田中なりければ、麻の衣は打たねども、十市の里とも言つつべし。内裏は山の中なれば、かの木の丸殿も、かくやありけんと、中々優なる方もありけり。先づ宇佐の宮へ行幸なる。大宮司公道が宿所皇居になる。社頭は月卿雲客の居所になる。回廊は五位六位の官人、庭上には四国鎮西の兵ども、甲冑弓箭を帯して、雲霞の如く並み居たり。古りにし朱の玉垣、二度飾るとぞ見えし。七日参籠の暁、大臣殿の御為に、夢想の告げぞありける。御宝殿の御戸押し開き、由々しう、気高げなる御声にて、
世の中の うさには神も なきものを なに祈るらむ 心尽くしに
平家は筑紫(福岡県太宰府市)に都を定め、内裏を造るべしと、公卿詮議がありましたが、都はいまだ造られていませんでした。主上(第八十一代安徳天皇)はその頃、岩戸(岩戸郷=福岡県筑紫郡)の小卿大蔵種直の宿所におられました。人々の家々は野の中田の中にあって、麻衣を砧打つ([砧]=[木槌で打って布を柔らかくしたり、つやを出したりするのに用いる木や石の台])ことはありませんでしたが、十市の里(都から遠く離れた里の意。[十市の里]=[奈良県橿原市])とも言えるような所でした。内裏(大蔵種直の宿所)は山の中にあって、木の丸殿(福岡県朝倉市にあった第三十七代斉明天皇の行宮=天皇の行幸のときに旅先に設けた仮宮)も、このようであったのかと、なかなか趣きがあるようにも思えました。先ず宇佐宮(大分県宇佐市にある宇佐神宮)に行幸([天皇が外出すること])になられました。大宮司公道(宇佐公道)の宿所が皇居に決められました。社頭([社殿の前])が月卿雲客([公卿と殿上人])の居所となりました。回廊には五位六位の官人が、庭上には四国鎮西([九州])の兵たちが、甲冑に身を固め弓箭([弓矢])を持って、雲霞の如く並んでいました。古ぼけた朱色の玉垣([皇居・神社の周囲に巡らした垣])が、二重に飾ってありました。七日間参籠([祈願のため、神社や寺院などに、ある期間籠ること])した明け方に、大臣殿(平宗盛。清盛の三男)が見た、夢想に告げがありました。宝殿([神殿])の戸を押し開いて、神々しく、気品のある声で、
落ち下った今の平家には、神などもういない。なのにいったい宇佐で何を祈るというのか、それほどに心を尽くしてまで。
(続く)