左史生申しけるは、「ただ今院宣受け取り奉らんとするは誰人とぞ。名乗り給へ」と言ひければ、兵衛の佐の佐の字にや恐れけん、三浦の介とは名乗らずして、本名三浦の荒次郎義澄とこそ名乗つたれ。院宣をば覧箱に入れられたり。兵衛の佐殿に奉る。ややあつて覧箱をば返されけり。重かりければ、康定これを開いて見るに、砂金百両入れられたり。若宮の拝殿にして、康定に酒を勧めらる。斎院の次官陪膳す。五位一人役送を勤む。馬三匹引かる。一匹に鞍置いたり。宮の侍狩野の工藤一臈祐経これを引く。古き萱屋を設うて、康定を入れらる。
左史生(中原康定)が申すには、「院宣([上皇の仰せ])を受け取るのは誰か。名乗り給え」と言うと、兵衛佐(源頼朝)の佐の字に憚ったのか、三浦介とは名乗らず、本名である三浦荒次郎義澄(三浦義澄)と名乗りました。院宣は覧箱([貴人に見せる文書や宣旨などを入れる箱])に入っていました。三浦義澄は覧箱を兵衛佐殿に奉上しました。しばらくして覧箱が康定に返されました。重たかったので、康定が覧箱を開けて見ると、砂金が百両入っていました。若宮(神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮)の拝殿で、康定に酒を勧めました。斎院([斎院=賀茂神社。を司る役所])次官(藤原親義)が陪膳([儀式の時など、食膳に侍して給仕する者])を勤めました。五位の者が一人役送([膳部=膳にのせて出す料理。を陪膳に取り次ぐこと])を勤めました。馬が三匹引かれて来ました。一匹には鞍が置いてありました。宮の侍所([侍の詰め所])狩野の工藤一臈祐経(工藤祐経。[一臈]=[蔵人や北面の武士などの首席の者])が馬を引きました。古い萱屋([茅葺きの家])を用意して、康定の宿所としました。
(続く)