備前の国は十郎蔵人の国なりけり。その代官の国府にありけるをも、やがて押し寄せて討ちてげり。瀬尾の太郎申しけるは、「兼康こそ木曽殿より暇賜つて、これまで罷り下つたれ。平家に御心ざし思ひ参らせん人々は、今度木曽殿の下り給ふに、矢一つつ射かけ奉れや」と披露したりければ、備前、備中、備後三箇国の兵ども、しかるべき馬物の具、所従などをば、平家の御方へ参らせて、休み居たりける老者ども、瀬尾に催されて、あるひは柿の直垂に詰め紐し、あるひは布の小袖に東折りし、破れ腹巻綴り着、山靫、竹箙に矢ども少々差し、掻き負ひ掻き負ひ、都合その勢二千余人、瀬尾が舘へ馳せ集まる。備前の国福隆寺縄手、篠の迫りを城郭に構へて、口二丈深さ二丈に堀を掘り、垣楯掻き、高櫓し、逆茂木引いて待ち掛けたり。十郎蔵人の代官、瀬尾に討たれて、その下人の逃げて京へ上るが、播磨と備前の境ひなる船坂山にて、木曽殿に行き遭ひ奉り、この由かくと申しければ、木曽殿、「憎からん瀬尾めを、斬つて捨つべかりつるものを、手延びにして謀られぬることこそ安からね」と後悔せられければ、今井の四郎、申しけるは、「きやつが面魂、只者とは見え候はず。千度斬らうと申し候ひしも、ここ候ふぞかし。
備前国は十郎蔵人(源行家)の所領地でした。代官が国府(岡山県岡山市中区)にいましたが、すぐに瀬尾兼康は押し寄せて討ちました。瀬尾太郎(兼康)が申すには、「わたし兼康は木曽殿(義仲)に暇を賜って、ここまで下ってきたのだ。平家に同心する者たちは、今度木曽殿が下った折には、矢の一つずつ射かけよ」と広めたので、備前、備中、備後三箇国の兵たちは、戦のための馬物の具([兵具])、所従([家来])たちを、平家方に参らせて、戦を隠居した老者([老人])までもが、妹尾(兼康)に呼ばれて、ある者は柿染めの直垂([山伏などが着る柿色の衣])に詰紐([紐をしめてしっかりと結ぶこと])し、ある者はは布の小袖を東折り([東絡げ]=[着物の裾を腰の両わきにからげて帯に挟むこと])して、破れた腹巻([簡易の鎧])を重ね着て、山靫([狩りに用いる粗末な靫=矢を納めて射手の腰や背につける細長い筒])、竹箙([割竹を組み合わせてつくった箙。矢の容器])に矢を少々差して、背負い、都合その勢二千人余りが、妹尾(兼康)の舘に集まりました。備前国福隆寺縄手(岡山県岡山市)、篠の迫り(笹ヶ瀬。岡山県岡山市)を城郭に構えて、幅二丈(約6m)深さ二丈に堀を堀り、垣楯([城、陣地などに、敵の矢を防ぐために楯を垣のように立て並べたもの])を並べ、高櫓を造り、逆茂木([敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵])を並べて待ち構えました。十郎蔵人(源行家)の代官が、妹尾(兼康)に討たれたので、その下人([身分の低い者])は逃げて京に上りましたが、播磨と備前の境にある船坂山(船坂峠=兵庫・岡山県境)で、木曽殿(義仲)と行き遭って、代官が討たれたことを話すと、木曽殿は、「憎い瀬尾を、斬って捨てるべきであったが、命生かして騙されるとは何としたことか」と、後悔しました、今井四郎(今井兼平)が、申すには、「やつの面魂([精神])は、只者とは思えません。千度斬らねば死なないとは、やつのことのことでございます。
(続く)