木曽、「これは我を勧むる自害にこそ」とて、やがてうつ立ち給ひけり。ここに上野の国の住人、那波の太郎広澄を先として、その勢百騎ばかりには過ぎざりけり。六条河原にうち出でて見れば、東国の勢と思しくて、先づ三十騎ばかりで出で来たる。その中より武者二騎先に進んだり。一騎は塩谷の五郎惟広、一騎は勅使河原の五三郎有直なり。
木曽(義仲)は、「これはわたしの出陣を促す自害である」と言って、すぐに出立しました。ここに上野国(今の群馬県)の住人である、那波太郎広澄(義仲の父源義賢の家人らしい)を先頭として、その勢は百騎ばかりにすぎませんでした。六条河原までやって来ると、東国(頼朝軍)の勢と思われる、軍が先ず三十騎ばかり出て来ました。その中から武者が二騎前に進みました。一騎は塩谷五郎惟広(塩谷惟広)、もう一騎は勅使河原五三郎有直(勅使河原有直)でした。
(続く)