淡路の冠者は痛手負うて、生け捕りにこそせられけれ。残り留まつて防ぎ矢射ける者ども、二百三十余人が首斬り掛けさせ、討つ手の高名記いて、福原へこそ参らせられけれ。それより門脇殿は、一の谷へぞ参られける。子息たちは、伊予の河野の四郎が召せども参らぬを攻めんとて、四国へぞ渡られける。兄越前の三位通盛の卿は、阿波の国花園の城にぞ着き給ふ。弟能登の守教経は、讃岐の屋島に着き給ふ由聞こえしかば、伊予の国の住人、河野の四郎通信は、安芸の国の住人、沼田の次郎は母方の伯父なりければ、一つにならんとて、安芸の国へ押し渡る。能登殿この由を聞き給ひて、屋島を立つて追はれけるが、その日は備後の国蓑島と言ふ所に着いて、次の日沼田の城ぞ寄せられける。沼田の次郎、河野の四郎一つになつて、城郭を構へて待つところに、能登殿やがて押し寄せて、散々に攻め給へば、沼田の次郎敵はじとや思ひけん、兜を脱ぎ弓の弦を外いて降人に参る。河野はなほも従はず、その勢五百余騎ありけるが、五十騎ばかりに討ちなされ、城を落ちて行くところに、ここに能登殿の侍に、平八兵衛為員と言ふ者、二百騎ばかりが中に取り籠められ、主従七騎に討ちなされ、助け船に乗らんとて、細道にかかつて水際の方へ落ち行くところを、平八兵衛が子息、讃岐の七郎義範、究竟の弓の上手なりければ、追つ掛かり、よつ引いて、七騎を五騎射落す。
淡路冠者(源義久)は痛手を負って、生け捕りになりました。能登守(平教経。清盛の弟教盛の次男)は残り留まって防ぎ矢([敵の進撃を阻止するために射る矢])を射た者たち、二百三十人余りの首を斬って掛け、討つ手の高名([高名帳]=[合戦で手柄を立てた者の名を書き留めた帳簿])を記して、福原(兵庫県神戸市兵庫区)に参りました。福原より門脇殿(平教盛)は、一の谷(兵庫県神戸市須磨区)に参りました。子息たち(通盛・教経)は、伊予国の河野四郎(通信)が呼べども参らないので攻めようと、四国に渡りました。教経の兄である越前三位通盛卿(平通盛)は、阿波国の花園城(徳島県阿波郡にあった)に着きました。弟の能登守教経は、讃岐国屋島(香川県高松市)に着いたと聞こえました、伊予国の住人、河野四郎通信は、安芸国の住人、沼田次郎がは母方の伯父でしたので、助けを求めて、安芸国に押し渡りました。能登殿(教経)はこれを聞いて、屋島を立って通信を追いましたが、その日は備後国の蓑島(広島県福山市)と言う所に着いて、翌日沼田城(広島県広島市)に寄せました。沼田太郎、河野四郎(通信)はともに、城郭を構えて待っていましたが、能登殿(教経)がやがて押し寄せて、散々に攻めたので、沼田次郎は敵わないと思って、兜を脱ぎ弓の弦を外して降人に下りました。河野(通信)はなおも従わず、その勢は五百騎余りありましたが、五十騎ばかりに討ち捕られて、城を落ちて行きました、ここに能登殿(教経)の侍で、平八兵衛為員と言う者の、二百騎ばかりの中に取り籠められて、主従七騎ばかりに討ち捕られ、助け船に乗ろうと、細道を通って水際の方へ落ち行きましたが、平八兵衛の子、讃岐七郎義範(讃岐義範)は、究竟の弓の名手でしたので、通信を追いかけて、弓を引いて、七騎のうち五騎を射落としました。
(続く)